Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「借金玉」氏の「僕はジョブズではないということを理解するのに30年近くかかった話」及びそのコメント欄を読んで

「借金玉」氏は非常に面白く、ためになる話をする人で、とあるマスキュリストがトゥゲッターでフェミニズムの犠牲者として取り上げていた人のアカウントを伝って知って以来、ずっとファンをしている。

それでこれほど面白い話ならば売り物になるのではないかと思っていたところ、果たしてこの方は書籍化を目指すこととなったようである。無事書籍化されることを願っている。

それでいよいよ彼のブログも序盤の山場に入ったようである。

僕はジョブズではないということを理解するのに30年近くかかった話 - 発達障害就労日誌

至る所共感できる場所に満ちていており、

「しかし、彼らから見れば「人間ではない」のは僕の方だったでしょう。」

の場所など、自分が自ら招いてしまった過去が思い出されて少しうるっと来てしまう。文学部の面目躍如と言うべきか。

とにかく、齢を重ねるごとに原因が自分にあることが解っていってしまうのである。

訳あって若者達と知り合うことになったのだが、言う必要のないことをすぐに口に出す子(既に成人しているが…)が散見され、彼らにこそ何とかして彼のウェブログを読んでほしいものである。

そういう子等は、ルールとは「皆が守るべき」類のものではなく力関係の結果に過ぎない、という事を解っていないのである。”あなたは義に過ぎてはならない”。

それでコメント欄に今一つ心に響かない批判があるだろうと身構えれば、やっぱり「恋人が居る時点でこいつは恵まれている」的なコメントが沢山見受けられる。

馬鹿々々しいな、とは思う。恋人が居たから何になるのだろう。

毎日他人の顔なぞ拝んで楽しいものだろうか。「我々」はアルバイトで人の顔に恐れおののくのに家でも見たいのだろうか。

或いは親の顔など毎日見たいだろうか?

我ながら性欲は強いと思う。が絵画(ピクト)に寄るという面はある。

絵に描いた女を「愛する」事は出来なかった。

そもそも「愛する」という概念、語の用法を私は理解していない可能性がある。

要するに所謂発達障害者とは誰か愛し愛される事はおろか、何かを愛する事も無いのではないかと私は思うのである。

――と、自分の「障害」が何か別の類のものの気がしてくる。

人格障害だろうか。スキゾイドは疑っている。

スキゾイドだとするならば、遺伝及周産期だけでなく、成人期までの家庭環境が運命を決したはずである。

親の言うことを聞きすぎてこうなったものか。

無趣味、無能、無感情、ありとあらゆる穴が瞼の奥に広がっている心地である。

父親の言うことを聞いて三度自分の人生を諦めた。

大学入試に失敗し、「お前は理系には向いていない。憧れだけでは科学者にはなれんぞ」。これで文転した。

大学院は行きたい所があったが、「格上に行かなければお前のしたい研究はできないし、格上に入ってしまえば教授の専門でなかろうと好きな研究ができる。」これで「格上」に変えた。

1年後大学院はもう駄目だと思って就職活動を始めたが、あの人の「途中で方針転換する奴は何もできんぞ」と言われ、また諦めた。

シリアはイスラーム国に渡航を試みた北大生はアスペルガー、博士課程という私と似た立場に居ながら、無事就職し自らの専門性を生かした職に就いているようである。

才能の差、努力の差はあれど親の言う事を聞き続けることはテロ組織の一員になろうとするよりも罪深いことなのである。

もとより「誰のために飯が食えると思っているのか」と事ある毎に怒鳴られ、自分の失敗や癖をあげつらわれ続けていては何も拒否できるはずがなかった、と言いたくなる。

何時かは父の様に現場で技術者として活躍できると信じていた。

ホワイトカラーや旧帝大を扱き下ろし、専門的立場から世を語る父はかっこよかった。

実のところ父その人が現場を侮蔑し、学歴と貴族的なホワイトカラーを崇拝していたのだった。

――その通りである。高3の時点で逆らっておくべきだった。

”親の言う事を聞きすぎてはならない。”

私の心はノルマン・コンクエストに遭った英語の様に、格変化や元々の語彙の殆ど欠落した、殺伐としたものとなってしまったよ。

愛情は脱落し、趣味の8割は失われ、原始的な怒りと憎しみだけのひ弱な人間になってしまった。

けれども待ち遠しいのは氏が親から如何様な責め苦を受けたかのエントリーだ。状況は私が遥にましだったのに現状が明らかに氏より酷いとなれば見方を変える必要がある。

若人よ、請い願わくば30代の人間達の失敗談(と補填の努力)に耳を傾けておくれ。

 

【追記】

何だか氏の今回の残業代のエントリのコメント欄とブックマークを見ても「相手に配慮を求めるか(られるか)」の違いが、親に甘えられたか、甘えられなかったかの違いから来ているように思えてならないのである。

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理系の行き止まり

私が常々思っているのは、文系学問、特にフィールドワーク系の学問や法学系の学問には芳しい未来は無いのではないか、と言うことである。
何となればこれらの学問は自分たちの頭の中にある義と徳を押し付けるだけで何も発見していないのだから。
「途上国の人たちは強かである」以外に前居た所で先生達が教えてくれたのはそれだけである。
何とか「科学の最低条件」たる、研究対象の未来を予測する方法は無いものか。
それで理系学問の方を、指を咥えて見てみると「こっちにもそんなものは無いぞ、しっし」と父が言う。
この人は私を不満なく文系学問に留める為にこんな事を言うのではないかと穿っていたが、どうもそのこと自体は本当らしい。
デイヴィッド・オレル博士の『明日をどこまで計算できるか 「予測する科学」の歴史と可能性』は邦訳もそうだが原題(APPOLO’S ARROW: the Science of Prediction and the Future of Everything)ともうって変わって予測科学に対する悲観論に満ちている。

 

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

 

 


本書の主張するところによると、どれだけ観測技術が進歩しても物理法則と初期条件だけから未来の予測をすることは、体積2倍問題が定規とコンパスだけでは解き得なかった様に不可能である。
何故か。完全な予測が出来るはずだと我々市井が思うのにはカオスと複雑系の混同もあるようだ。

カオス系(システム)は、複雑系と同じではない。前者では、予測には正確な初期条件が必要になる。後者では、予測は不可能である。(p.380)

そして天気や経済などの系にカオス的な性質が有っても複雑系的な性質が存在しないと考えるのは、それらの専門家たちの単なる希望的観測に過ぎないと一刀両断にする。
実際には、“単純系”よりも複雑系のほうがずっと多い。数その物も有理数より無理数の方が多いではないか、と作者は言う。
著者の“消極”部分の論を読む限り、科学という営為の成果は科学技術を生んだ事だけという事になりそうである。
定量分析に憧れている身としては、参ったなあ、の一言に尽きるというものである。
尤も(書かれてはいないが)人類の予測能力を大きく凌駕する人工知能や宇宙人も恐らく存在し得ないということなのでそれでいいのかもしれない。
ところが“積極”部分の論を読むと、二酸化炭素が地球を温暖化させているのは疑いようが無い、市場は不完全である(不完全であるのはその通りなのだが、それは所謂、自由市場経済と言うのは最悪の制度である。そのほかの全ての経済制度を除けば、という話ではないのだろうか)、生命は素晴らしい、と何とも80年代的な生命賛美・環境保護主義、反市場主義的な事が書いてある。
それでこれらの問題への読者のアンガジュマンを急かすのである。いささか仰け反る本ではある。
数学的モデルで未来が予測できないから人間、知恵持つ生命、たる政治家や運動家が未来を正しく予測しうると言うのは短絡的過ぎるだろう。
せめて、それが成功するのは就任した政治家や頭角を現した運動家が奇跡的に賢く且つ善人である場合だけであるが、と一言書いておくべきではなかったのか。
要するにこの人は左派・リベラルの人、言い換えるならば理想家なのだが、それにしても右派の小林よしのりやポール・コリアーにしても積極に出て成功するのは失敗しているきらいが有るので、もう皆積極へは出て行かない方が良いのではないかと考えざるを得ないのである。
では我々は取り敢えずで良いから何に基づいて物事を予測すれば良いのか、という問いに対しては国内でより良い意見が有って、韓国・朝鮮研究家である古田博司教授の『ヨーロッパ思想を読み解く――何が近代科学を生んだか』に、経験に無い物事についての人間の判断力(要するに予測能力)が「直観」と「超越」に分けて論ぜられている。

 

 
迂遠な書き方を避けない先生なので私なりの解釈を書いておくと、「直観」とは要するに“思いつき”の事である。
或いは“実感の湧く事”、“見たままの有様”だと言っても良いかもしれない。
“思いつき”とは五感と記憶の無意識的な統合なので、それは“実感”、“見たまま”でもある。
古田先生の言葉遣いに従えば、フェミニズム脱構築などの8、90年代に日本に輸入され隆盛を誇った諸々の思想は「直観」を欠いたものであると言えるだろう。
フェミニズムは「男女は生物学的に同じである」という“実感”に基づかないテーゼに基づいた思想だったし、脱構築は “実感”など無くとも自由に批評やスタイルを練り上げられるとする思想であった(同じ爛熟期のフランス現代思想内においてもどこまでも躁的なデリダと、非科学的であっても「現実界」を見ようとしたラカンの違いは大きいだろうし、デリダヒルベルトの類似性についても検証したほうが良いかもしれない)。
しかし残念ながら実感なしでは有益なものも有意義なものも生まれなかった。「直観」、“実感”とは公理である。滅茶苦茶な公理からは当然不便な体系が生まれる。だから数学的モデルにしても、「こちら側」で好き勝手にモデリング出来る訳が無くて、「直観」から始めるより他無いのである。
「直観」を数学等でモデリングすることで初めて実感の伴わない領域への「超越」が可能となる。
これが、著者が未だ数学を捨てざる理由であろう。この人は数学が不必要だとは決して言わない。
数学は万能ではないが、どうしても要る。
けれども「超越」に関しては、私は疑念を抱いていて、「超越」は半ば禁じ手ではないかと考えている。
良い「超越」と悪い「超越」の区別が付かないのだ。
科研費を出す側にとってはギャンブルになる。
著者のデイヴィッド・オレル博士にしたって「超越」のし過ぎだといえる。
前に呼んだ本との意外な繋がりも有った楽しい読書だったのだが、著者の、そして私自身が取るべき「超越」への姿勢については疑問が深まるばかりである。

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人生経験の無い人

人生経験の無い人というとどのような人を言うだろう。

上司や仲間の出す無理難題をこなしてきた事の無い人の事を言う、という意見は至極全うである。けれどちょっと暑苦しい。もう少し涼やかに言えはしないものか。

人生経験の無い私なりに考えてみよう。

此処はてなダイアリーtwitterなどを見てふと思うのは、「人生経験が無い」というのは「身内に嫌われた経験が無い」という言い方も出来るのではないかという事である。

例えば、文字通り家族という身内に裏切られ嫌われ疎んじまれた事の無い人というのは、人生経験が無いと言える、と思う。

母親、父親或いはその両方から苛められ、相矛盾する命令をされグロッキーになった事の有る人々は幸いである。そうでない人々に比べ人生経験があるのだから。

上司、同僚、自分が属する思想集団から攻撃され陥れられた事の有る人は幸いである。そうでない人々に比べ人生経験があるのだから。

味方から弾丸を撃ち込まれた事の有る兵隊は幸いである――

さもないと人はどうしても身内だけは信用してしまう、そして遂には身内だけを信じ切るようになって、互いに腐らせるようになるからである。

そして想定外の事態、時代の変化、有害な他者に対応できなくなってしまう。

「かえるの卵のように寒天の中にくるまっている」のは自閉的な個人だけではない。健常者も徒党を組んでしている。

健常者が自閉的な人間のように一人では「かえるの卵のように寒天の中にくるま」らないのは、自分の属する集団皆でそれをして外には出たがらないからである。

冷戦にくるまっていた日本の大企業はポストモダンの到来に対応できたろうか。

冷戦にくるまっていた日本の左翼は冷戦の終わりに対応できたろうか。

不注意多動的な人間は自分の入れる「寒天」質を持たないだろう。それはアドバンテージである。

但しもし不注意他動的でありながら(珍しくも)身内に叱られ続けた、裏切られ続けた経験が無いと傍迷惑でありながら見合う物の無い能天気な人となってしまう。

心に信用を抱いてはならない。それは心を腐らせ、自分や自集団と言う寒天質から一歩も出ることを出来なくするものである。

ただ人生経験は何不自由なく育って中年まできてしまった人間が改めて積む事も出来る類のものなのではないかという気もする。

私にも私なりの人生経験があるのだと声高に言うはずが弱気になってしまった。人生経験を積まねばと思う。

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男は女に何を求めるか

最近性差をめぐるちょっとした論争がインターネット界隈で盛んに行われているようである。

matome.naver.jp

 

上のリンクは漠然と性差に纏わる議論と言うよりも、ピンポイントで「男は女に究極的には何を求めているのか」という議題に関する議題であるように思える。

偽善者たちは言う

「恋愛は男にとっても充実したものである」

「男も淋しいのだ、人のぬくもりが欲しい」

勿論これらの主張をば女性諸君は鼻で笑ってくれてかまわない。

私も信じようとしたことが有ったが、欺瞞である事を悟るようになっていった。

我々はあなた方よりもずっと嘘吐きで、残虐で、手段を選ばない。

これは欺瞞だろう。テストステロンは分泌量が増える程、孤独を好むようになる。

しかしこの主張は嘘ではまったく無いにしろ些か不正確である。男は当然性行為目的に女を歓待するのであるが、何故性行為するのかが書かれていない。

性行為そのものは欲望を満たす為の謂わば”有効な手段”であって目的では無いのである。

目的を説明するために漫画本のキャラクターの台詞を持ってくるのはふざけているのかと言われそうだけれども、我々男性が女性に求めるものを端的に表している台詞があるので引用しておく。

 

あるのはシンプルな、たった一つの思想だけだ…たった一つ!
「勝利して支配する」!
それだけよ…それだけが満足感よ!
過程や…!方法なぞ…!
どうでもよいのだァーッ!!

 

この台詞がラブコメディのものであったなら「その通り!」と男達は拍手喝采するだろう。

我々が欲しているのは性的競争において『勝利して』女性を『支配する』事だけである。

ただ『それだけが満足感』なのである。

だからこの台詞を言ったキャラクターは性的な意匠に満ち溢れている。

女性は我々の事を全員このキャラクターの劣化版だと考えればいいのである。

またそれ故、男と言うものは「性行為させてあげる」という心理には何ら興奮しない事は覚えておくべきである。

「この人とだけは本能的に性行為したくて我慢できない」「嫌で仕方がないが性行為しないと怖い」ならば男は興奮するだろう。

今の世は怖いと思う。どんな本音でも筒抜けなのだから。

それでも女性にとって、自分の事を”領土”と考えて(暑苦しいが)手放そうとしない人間と、

自分の事を”略奪品”と考えて(後腐れは無いが)直ぐに見捨てる人間は区別する必要があるであろう。

この見極めはどうすれば良いかと言うと多分、イデオロギーに染まらず自分を疑いつつ自分自身の直観で男達を品定め、すれば良いと私は考えている。

勿論”品定め”と言う位女性が男性に求めるものも”自動現金引き出し機”以上のものではないので、お互い様である。

何とまあ男女の間には暗きものしかないことか。

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招春

仕事をするでもなく

学問をするでもなく

友情恋愛を愉しむでもなく

自らを嘆く―――

苦しみ漫然と生きてきたが、もうその様な事を続けたくは無い。

人生の失敗は周りの人間の所為だとは考えてきたが、もう弱音は吐くまい。

強いて強く生きようというのではない。

只自分から生きたい。

人の全ては遺伝と環境で決まる、その事に依存は無い。

意思を過大評価してはならない。

しかし過去の自らの全てが遺伝と環境に還元可能だとしても、これから自分がどうするかは別の事だ

意思も物理法則に還元可能ならば、物理法則の一部も確かに意思なのだ。

さあ、私は成り損ないなら成り損ないらしく全て遺伝と環境の所為にしよう。

ただし誰にも言わない「こうすればよかった」と言う後悔は自らのものとしよう。

過去については私にはどうしようもなかったと言いながら、精一杯頑張って私は未来に来て貰おう。

思い出すは暗き自らの変遷

心抱くは意思の源泉

この春こそ春を訪れさせん。

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宮崎駿監督の挫折

ギスギスした食事風景を和らげるために、色々なビデオを借りてくるようになり久しい。

その中でもスタジオジブリ、実質的には宮崎駿のアニメーション映画というのは過去の思い出も有り、苦酸っぱいような視聴後感を持つ。

時間が足りていないのに見入ってしまうので、焦ってビデオを食事中に流すのは差し控えている。

そのような訳で最新作の『風立ちぬ』は未視聴のままである。

それで映画を見終わった後の第一印象はと言うと、何とも古臭い。

モダンのカビ臭さと言っても良いかも知れない。

兎に角、押井守監督作品もそうなのだがお説教が前面に出すぎているのである。

また押井作品に関して言えばモチーフが聖書から取られていたり、俗物臭さも目立つ。

が同時に懐かしくて仕方がない気持にもなる。

昔はアニメーション映画のみならず、テレビアニメや漫画本でさえ(だからこそ)お説教に満ち溢れていたのである。

そのようなお説教は高校生以降うっとおしく感じていたのだが、いざ諸々の理想の時代が過ぎ去ってみて、仲間賛美に終始する週間少年ジャンプ系の漫画・アニメ、絵に描いたような絵に描いた美少女が横溢跋扈する深夜アニメばかりの現在から振り返ってみると、篭められた理想がないと物足りない気もする。

 

宮崎駿監督というのは少年時代彼を崇拝していた自分から言わせて貰うと、非常に理想の押し付けがましい、お説教じみていると同時に、理想から突っ走って場外へ落ちていく人だという印象がある。

マンガ版の『風の谷のナウシカ』が最たるものであった。

ではその後はどうか。

先ず『千と千尋の神隠し』でエコロジー的なイデオロギーが脇へ追いやられた。

それで『崖の上のポニョ』で遂にイデオロジカルなセリフがなくなってしまった。

スクリーンの後ろでは監督が小言を言っているのかもしれない。

けれども表立ってお説教をしなくなったというのは大きな方針転換であるように思う。

時系列順の印象を述べていくならば、年を追う毎に宮崎監督は理想から遠ざかっている気がする。

 

思うに宮崎監督は自分の理想について真面目に考えてしまった所為で、理想というものが大体において矛盾に満ち、実現不能であったり、そもそも人々に本気にされなかったり、時として破滅をもたらす物であると言う結論に至ったのではないかと思う。

穿ち過ぎだろうか。

漫画版の『風の谷のナウシカ』では人間と自然の共存がテーマであったはずが、最後には環境問題を問題視するその姿勢そのものが徹頭徹尾人間のエゴでしかない事が明るみに引きずり出され、ある種自由放任礼賛的な結論をナウシカ達が迎えてエンディングを迎える。

心ある評論家が言うように、ここで宮崎駿の思想は完成を迎えていた(そしてそれ故それ以降の作品は蛇足であった)という意見は以前は私もそう思っていたし、ある程度妥当なものであろう。

けれども宮崎監督は作品を作り続けた。

スタジオジブリの面々を食べさせていく為、というのは大きな理由のひとつであったろう。

 

でもここに私の憶測を付け足してみたいと思う。やはり監督は物足りなかったのではないか。

漫画版ナウシカが終わった後宮崎監督はスタジオジブリ最盛期を飾る『もののけ姫』を発表した。

一見漫画版ナウシカを映画用に焼きなおしただけのようにも見えるけれども、先日見直してみて少し評価を変えた。

登場勢力が後期ナウシカから増えているのである。

現実の自然である。

これが「言葉すら話せなくなったか」と嘯いた犬神モロの一族や巨大なイノシシ達だけが登場人物ならば本当に漫画版ナウシカと同じと結論付けていいと思う。

しかし『もののけ姫』にはどこまでも異形でしかない「シシ神」が登場する。

「シシ神」は言葉を一言も話さない。

おまけに人にも森の生き物にも加担しようとしない。仕舞いには瀕死のオッコトヌシの命を奪う始末である。

犬神たちや猪たちと違って「シシ神」は飽くまで意思を持たない自然そのものに過ぎない(私もはっきり意識しだしたのは2ちゃんねるのログを見てみてからだが)。

http://viper.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1399002584/

そして最後には石火矢で首を狩られゲル状の濁流となって山や人を飲み込む。

これだってシシ神の怒りの意思表示と言うよりは単なる山崩れのメタファーだろう。飽くまでシシ神は意思を持たない自然そのものである。

「生きろ」と言うのは、山崩れから奇跡的に生き残った初代近世人アシタカ達の勝手な自然解釈ではないのか。

それで何故漫画版ナウシカにわざわざ本物の自然を付けて映画化したのかといえば、それは宮崎監督が自然からは何の道徳律も導き出せないと言う境地に漫画版ナウシカのラストを執筆していた時に既に達していて、それを強調する為に無言の自然を導入したのではないか。

もののけ姫を完成させた時点で宮崎監督のエコロジー観は完成されていたのではないかと思う。

 

それで既にやりたいことを全てやり終えたならば何故『千と千尋の神隠し』を制作したか。

もののけ姫』との断絶があったのではないだろう。

監督は一貫して自然と近い概念を崇拝している。

「生命力」である。

手塚治虫荒木飛呂彦もそうだが、ある世代以前の人達は人間性と生命力と自然を二つイコールで結びつけて崇拝する傾向があるように思える。

自然に生命力を見出すのに失敗した宮崎監督は今度は現代の若者の生命力の無さに目を付け、若者が生命力を取り戻す物語を通じて生命力の賛美を行おうとしたはずである。

なので『千と千尋の神隠し』にもお説教がちりばめられている。

監督は作品を通じて今度は若者に生命力への回帰を訴えることで生命力賛美をしたのである。

 

ただそれも黄金期を過ぎ、インターネットによるクリエイターと世論との直接的対峙が始まるにつれ、陳腐化していった。

ハウルの動く城』は失敗作ではないが、自作の二番煎じなのである。

それで自らの老いも有って、宮崎監督はポニョや風立ちぬのような自閉的な作品が目立っている。

 

以上が宮崎駿監督の作品に関する私のざっとの感想だ。

けれども本当の事が気になるのなら、本人に聞けばいいのかもしれない。

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再びADD/ADHDの長所を考えてみる

またADD/ADHDの長所を考えてみた。

色々有るはずである。

それでやはり”"他者"に興味を持てる事”というのは大きいのではないか、と言う思いに至った。

自閉的な、アスペルガー症候群の人々は他者に興味を持たない。

興味があるのはモノとモノとしての人だけである。

発達障碍者ではない普通の神経の人々も他者に興味を持たない。

彼らが興味を持つのは”我々”の事だけである。

普通の人々は自集団の中だけで自給自足し、友達付き合いをし、結婚をする。

異民族、自分とは神経学的に異なる人々、は意識の外にある。

こういう人々が「外」について物申すときは気をつけるべきである。

大抵は頭の中の「海外」「弱者」について語っているだけなのだから。

それで自分の想像と違う者が出てくるとその人を全否定しだす。

 「そういうのは例外である。」「帝国主義者と結託している。」等々。

「彼ら」の社会を無理やり私のものにするわけである。

けれども最近巻き返してきた右派とて変わらない。

天皇陛下天皇陛下」、「万邦無比」と喧しく言うが結局は自らの国、「天皇陛下」を制御の効く、自分の体の一部だと思っているに過ぎない。

「我々」の社会を私の社会だと摩り替える訳である。

自分の体の一部だと思い込んでいるので、右派も左派も社会は変えられると言いなす。

 

ADHDは違う。

ADHDは同じところに留まりたがらない。

何故純自閉的な人々が常に同じ事をするのが理解できないし、

何故健常者が常に「我々」に留まるのが理解できない。

 落ち着き無くパースペクティブをコロコロ変える訳である。

だから全くの他者にも視点が行く。

作り話に於いてもADHDの特質というのは良く捉えられているのでそれを最後に引いて記事を終わらせる。

 

ただの人間には興味ありません!
この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!

 

彼女は恐らく、アスペルガー障害ではなく多動性障害である。

2014年、時はポストモダンもたけなわの時、スキゾ・キッズが冒険に出る時が再び来たようだ。

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