Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

眠れなかった

アトピーや神経質さで眠れなかった後に

父親が何かに対して声を荒げ、母親が怒りの顔を露にしているといたたまれなくなる。

自分が一生理系的な才能が無いのだろうか、と言う事も相俟って、

自分は必要なく生まれてきたのでは、と思う。

でも自分が世界の必要要素ではなかったところでなんだというのだろう。

世界から好かれてなければ、世界に好かれるよう気を遣う必要もない。

嫌われていたところで自分の好きなようにするとしよう。

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Googleロゴの面白さとわざとらしさ

Googleのホームページに表示されるロゴと言うのは時々工夫を凝らしたものが出てくる。ミニゲームなどは特に面白い。

しかしどうにもわざとらしくないだろうか。

今回のドロシー・ホジキン等は非ユダヤ系の女性科学者が余り知られてないこともあって啓蒙として確かに有効なのだが、エリート企業たるGoogleがあらぬ所で啓蒙活動をするとどうにも我々一方的に情報をフィードされるものとしては見下されている感じがするというのは私の僻みやっかみであろうか。

逆に言えば一般的に啓蒙活動が無ければ、ユダヤならざる女性科学者はキュリー夫人以外存在しないのでは、と思う程非ユダヤ人の女性科学者は少ないのではないか。

注意しなければならないのはユダヤ人という属性を持って生まれた人は皆通常のホモサピエンス・サピエンスよりも平均的に見て知能が高いと言う事である。

謂わばユダヤ人たちはホモサピエンス・ユダオイであって生物学的に通常人類と異なるのである。

だから科学者への適性が男女で異なるか同じかを確かめるにはユダヤ人と非ユダヤ人で分けて統計を取らないと事実が判然としない。

Googleのロゴは毎度わざとらしいのではないか。

特に小保方の件のすぐ後である。政治的な意図が無い様には思えない。

ともあれ私個人の願望としては、日の本の人間は男だろうが女だろうが賢いのだぞ、と国粋主義的にも自慢したいのであり、今回のGoogleロゴは海外の科学者の例とはいえ、興味深いと思わせるものであった。

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私の希望

世界中の人々が何の希望も無く生きていけるようになればなあ、と思う。

私の希望である。

左翼の様に絶望や苦しみの無い社会を切望する事なく、

右翼の様に夷狄の穢れ無き社会を切望する事も無く、

社会に何の期待もせず、

世界は少しも良くはならないのだという事を理解し、

ただ生きているだけの毎日に満足する人間に人類皆になって欲しいし、

私自身もなりたい。

けれどもそれもまた希望と言うものだろう。

理想の裏には、社会の中での影響力を幾らでも増したいというホモサピエンスの根本的な本能が有り、それゆえ理想を否定する事は人間存在を根本から否定することになるのだから。無論、私にも当てはまる。

そんな希望もまた捨てなければならない、その小乗精神こそが仏教本来の姿なのだから、と思う。

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文系の存在は必要だろうか

私は現役受験が失敗した後文転した口で、それは父親の四半日に渡る「説得」からだった。

当時私は気が弱く父の言うことならば何でも正しいと思っており、深夜4時に至るまで8時間も「説得」されては文転を「決意」せざるを得なかった。「全ては私が自分の人生のために自分で決めたことです。」

しかし文系は学ぶは愉し、研究するは難し、だったのだ。

理系こそは学ぶは難し、研究するは愉し、である事は父によって臥されていた。

それで我々文系と言うのは、何も新しい事を発見出来ないのを他人の主義主張に正義の口出しをして誤魔化している。

曰く、お前は無意識的に女性を差別している、お前は無意識的にアラブなりアフリカなりの人たちを差別している。

或いは逆向きに女性は本当は男性に勝るものなのだ、本当はアラブなりアフリカなりの人たちは西洋に勝るものなのだ。

本当にそうなのかもしれない。ただ、定量化が要る。

どだい数学が出来なければ学問など成り立たないのである。

人文・社会科学など自然科学に統合するか、さもなくば廃止するしかないという事に良い年になって気が付いた。

後は中途半端に精の残った老いつつある体が残るのみである。

文系風に言うならば「生きるべきか死すべきか、それが問題である」だろうか。

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中韓は特別か

一昔前からインターネットで、次いで書籍の政治欄から、今では至る所で中韓は比類なき悪であるのかのような主張が見られる様になった。

彼等が礼儀を失して嘘や捏造ばかりで、手段を選ばない連中だというのはわかる。

しかし彼等こそがホモ・サピエンスの標準的な姿なのだ。

何故平気で賠償金をたかってくるのか。それがホモ・サピエンスの通常の生態だからである。

奢り奢られの共食慣行は地域研究系の人間は自分の研究地域独自のものだと口々に言うがアラブだろうとアフリカだろうと発展途上国世界共通のものである。

ヒトは元々相互寄生して生きてきたのではないか。

 歴史を自分の都合のいいように解釈する、イスラム世界はもっと酷いではないか。自分たちの奴隷貿易は忘れてキリスト教徒達を非難し、自分達が仕掛けたトゥール・ポワティエ間の戦いは忘れて十字軍を避難する。

ヒトは元々騙し合って生きてきたのではないか。

そうした意味では寧ろ先進国の人間が文明化されすぎているのである。

文化が違うのではなく文明化の度合いが違う。

だから何々は親日国、などという寝言を言っている人たちはその親日国からの移民を受け入れて泣きを見るのだろう。

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数直線について素人が考える

今日は疲れとアトピーの薬の副作用か何もやる気が起きず正午過ぎにして早くも”敗色濃厚”な気分になっている。

何か書くことがあるだろうか。

そういえばこの間書いた実数の事は未だ心に引っかかっている。

やはり実数と言うものは要するに量の事であって、「有理数はスカスカである」と言う中学高校教師の有名な決まり文句は、

数が有限なプロセスでカバーできる領域は、幾ら回数を増やしたところで”量”の一部分でしかない

と言う事なのではないだろうかと思うようになった。

でもその数直線ですら量をアナロジーで表したものに過ぎず、量と言うのは物理学が言うエネルギーのように長さ(数直線)、重さ、明るさなど様々な形で現れ、

数直線と言うのはその中の最も視覚的表現に適したものに過ぎず、”量”自体というのは決して可視化出来ないものなのではないか。

こうして考えた事をつらつら書いているとまた疲れが増してきた。

ジハード(努力)をするのは昼寝の後にした方が良さそうだ。

 

【追記】

数学と言うのはピタゴラス学派の呪縛から未だに逃れられてないのではないか。その事がまるで数に見えない数直線を数の定義であると言いなす一因なのではないか。

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実数は存在するのか

この所また実数というものが果たして存在するのか俄に気になり始めている。

実数の「厳密な定義」と言うのをする時に必ず出てくる数直線と言うものが納得いかないのである。

何故、数の定義をするのにアナロジーでしかないはずの直線が出てくるのだろうか。

私はそもそも論をしすぎのように自分でも感じるのだが、それでも

そもそも「数直線」が先にあって後から実数が付いてくるのではないか

、という疑念は拭い去れずにいる。

実数とは数なのだろうか。

本当は”量”ではないのか。

昔は量と数を区別していたはずである。

先ず幾何学的な存在の”量”が有って、それにどこまでも有限な存在である”数”を当てはめているだけの様にも見える。

無理数も、どんな数か表示せよ、と言われたら有理数を無限に並べた様を以て良しとする以外に無いのではないか。

有理数こそ”数”であって無理数を含めた実数とは”量”ではないのか。

或いは幾何学的な概念が先ず数学者の頭の中に有って、それにお金や林檎を数えるのに使っていた”数”を当てはめたところで数学が始まったのではないのか。

私にはロルの定理などは後付に見えて仕方ないのである。

 

ともあれ文系人がそんなことを問うのはおこがましい事であり、

本当の所を知りたければ数学科に学部から行き直せという事なのだろう。

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