Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

男女の法の横暴である

時事ドットコム:父子関係、DNAで覆せず=「婚姻中は夫の子」で初判断−血縁なくても認定・最高裁

 

法律で弱い人達を守れ、法律で悪い連中を規制しろ。

希望に目が眩んだ人達は法律で世界を良く出来ると信じている。

悪い事だと思う。家族の崩壊を促すから、ではなく財産の所有権が守られていないのである。

女性が複数の男性との間に子供を設けてはいけない、と法律で設定するのは些かクレイジーである。

男性も女性も複数の異性との間に子を設ける事を禁止される謂れはない。そんな事は根本的な自由(Liberty)の侵害だからである。

どうしても浮気しがちな人間は最初から自分は浮気するのだと世間に通達してから、浮気をすればよい。

もし気が変わって相方に愛想を尽かしてしまったというのなら”結婚”時に取り決めた違約金を払うようにする。

ただここで言う”結婚”とは性交申告以上のものではない。

要するに全ての人間の性行為をば全ての人間が知りうるようにしなければならない。

そして生まれてきた子供の養育義務は、DNA鑑定を始めとするありとあらゆる科学的手段によって父親である蓋然性が最も高いと判明した男性と間違いなく子供を生んだ女性に平等に帰せられなければならない。

専業主婦の仕事は家政婦の仕事として解され、お給料が払われる。

これで全ての男女関係が丸く収まるのではないか。

家族が崩壊するから、と言いつのる人々はでは何故家族が崩壊してはいけないのかを説明しなければならないだろう。

もとより人も物も制度も、諸行は無常である。

 

だがこれもリバタリアンユートピア、脳内郷だ。

今回の件では、夫へのこれから浮気するぞという通知は、なされなかった。

そして夫は自分の遺伝子を受け継がない子供に養育費を払わなければならない。

前者二件では夫は自らそれを望んでいるが、それにしても遺伝上の父親には、養育費を払い、面会を拒絶される義務が発生してしかるべきである。

四国の件はそうですらない。夫は悪い男の子供を無理やり育てさせられる。財産権が侵害されている。

言っておくが人は遺伝子から自由ではない。

それどころか全ての行動は大なり小なり遺伝子の制約を受ける。

こうして悪い間男の遺伝子が殖えてゆくのだろう。

人が取りうる立場は優生学か劣勢学しかないのに、「良識」有る人々は優生学を専ら批判して、悪の遺伝子を殖やす。

法の役目とは信賞必罰を徹底させる事ではないのだろうか。

裁判官達は(国会議員もだが)自分達が出切る事は多いと思いなしているようだ。

そんな訳は無い。人は市場メカニズムが与える以上の幸せは望むべくも無い。自然に逆らえば、即ちより不幸せな生活が待っている。

さあ、次の最高裁判所裁判官国民審査では、桜井龍子ら三人の詭弁家の名前の上に×を付けよう。

 

【追記】

このような判例は結局は女性たちにとっても不利である。

これで保守化が更に進むかもしれない。

女は家にいるべきと、皆が心に思うようになるかもしれない。

日本の将来はもう、誰が誰の子供かわからずどの父親も努力しないディストピアか、

さもなくばホメイニの国のように宗教が性を管理するディストピアしか残されていないのではないか。

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「落ち着きのない人」に無条件に薬を使うべきか

先日の記事の追記を書き残しておきたい。

あの記事で言及した記事の管理人である「ukdata」氏がADHDであると「診断」した有村悠氏だが、私の勘では薬を飲んでも状況が改善しないのではないかと思われる。

というより薬の副作用が強く作用してしまう可能性がある。

仮に有村氏が自閉症スペクトラム障害を併発していたりすると以下の様な問題が存在するのである。

 

―――PDDと診断された患者に対するメチルフェニデートの有効性は,児童を対象とした米国の二重盲検試験によって多動症状に効果があることが示されたが,PDDの並存のないADHD児と比べるとその効果は小さく,副作用はすこぶる頻回であった.

(神尾2012,p63)

 

私がADHDなのか、自閉症スペクトラム障害を併発しているかも判然としないのだけれども、すくなくとも私はコンサータを使用して数日で片手足の痺れ、眩暈に悩まされる事となった。使っている間は気が大きくなるので、精密作業が仕事でなければいいかもしれないし、頓服としては使えるかもしれない。

ストラテラとなるともっと苦しい。寒気が止まらない。

でもそれより親との確執の方が問題なのだ。父親への恐怖が、他人の目が気になる心理が、臆病が不注意でなくとも特定の人々を物事に集中できなくさせる。

カウンセラーが役立たずである、というのは一理あるだろう。

漢方薬ともなれば言わずもがなである。

ukdata氏の西洋医学至上主義は私から見て、正しい。

けれども西洋医学に並ぶものがないのと、有村氏の悩みが生得的であるかどうかとは別であるはずである。

人文社会学者が正しい指摘をすることはあるという事は忘れずいるべきである。ただ彼らの提示する対策はどれも間違っているだけである。

私もそうなのだが親の方から変わっていってくれなけれどうしようもない状況があるのではないかと思う。

勿論「自分の人生」なので努力はする。出来れば死に物狂いで。

幸せの為と言うよりはプライドの為である。

どちらの親も、どの親戚も、どの教師も指導教官も、どの精神科医も私を冷たい目で見てきた。

良いではないか。こう言う時は、憎しみをばねにするしかない。

 

最後に私がしたいのは批判ではない。

有村氏にしろTehu氏にしろ誰も見ない日記でも、反論しておかないとああいう人に傷つけられる一方だからである。

もしこの記事で言及された人々がこれを見て頭にくるのなら謝っておきたい。

 

成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル

成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル

 

 

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自閉的な人々の欠点、ADHD的な人間の用途

インターネットを見ていると自閉的な人々に出くわすことがかなりある。

とは言っても私が言いたいのは「私は自閉症スペクトラム症候群/アスペルガー症候群です」とホームページのタイトルに書いている人たちではない。

あの種の人達が自閉を僭称しているとはあまり思わないのだが、純粋なアスペルガーではない可能性はある。他動不注意を併せ持っているか、非典型の方ではないのか。

何しろ純血種の自閉的、アスペルガー的な人というのは名乗りだす事はおろか自分がそうである事を周りの人間から指摘されても否認している可能性が高い人達である。

そうではなくインターネット上に純自閉的な人々が居るとしたら私はそうだと名乗りを上げている人々ではなく、他人については遠慮なく否定し、一方で「私は正しい、そして私は世界一可哀相な被害者である」と名乗りを上げている人々のはずである。こう言っている時点で当人の加害性を疑うべきなのだが。

 

今日もそう言う人の記事を見かけた。曰く、ADD/ADHDはどうあがいても天才にはなれないという。

至極尤もだとは思う。何しろ集中力が無いのだから、きちんとした成果を出せない。

他の記事も自閉無罪、自閉天才と言わんばかりのアスペルガー賛美である。

恐らく自らも自閉的だと悟った上での、「生きる元気」を得るための自画自賛だろうと思う。

だが、自閉無罪を叫び、事有る毎に不注意多動の徒を扱き下ろすのは如何なものか。

自閉的な人々はいつもそうである。「俺は悪くない」

閾値には達してないとは思うが)我が父も我が指導教官もその気があった。

このブログ主の日常生活での”俺様”ぶりが目に浮かぶようである。

仕方ないのはその通りだ。特に理系の人間はそうなのだが、自閉・アスペルガー的な人々は”不快”でも役に立つ。

役に立つから絶望的に幼稚でも大人として認められる。羨ましい限りである。

 

恐らく自閉的な人々とADHD的な人々は元よりなさぬ仲なのだろう。

自閉的な人間が親や上司であったりすると、ADHD的な人間は彼らの支配に苛まれる。

子供・子分はアダルトチルドレン的になって唯でさえ短い集中力がゼロになる。

もともとADHDにも短いながらか集中はあってそれを臨機応変に使うことによってADHDの人間は生き延びていたはずである。

それが無くなったのを元々無いといわれるのは心外である。

自閉的な人々はその揺るがぬ姿勢がどれだけ周りの人々を傷つけるか、彼らは想像をしようとすらしない。

天才(「天才」という表現自体自閉的高知能者への賛辞とも言える)には勝てないというのは分かっている。

 

しかしその視点の硬直性が純アスペルガー的な人間の長所であると同時に、瑕疵であるように思われる。自閉的な人達というのは概して視点が固定化し周りが見えてないのである。農耕工業には向いていても狩猟採集には適さない。

近代が終わった現代は”狩猟採集”の世となっていくので、見ようによってはこれはADD/ADHDの人々にとってのチャンスである。

先の大戦の枢軸国、ないし科挙の伝統の厚い東アジアでは特にそうなのだが、集中力のある純アスペルガーの人々は出世し”すぎている”きらいがある。

このような社会では自閉的・アスペルガー的な人々が率先して部長・社長になって興味の有る専門分野以外の、人事・人材育成や会計・経営を任される。

自分の興味の無いことだから偶々最初に出会った思い込みに基づいた、ちょっとの安易な考えで「~しておけばいい」と吐き捨てがちに言う。

もとより現場を離れては力を発揮できない人達ではないのか。

経営が傾く。ルマンで一位を走っていたのに故障でリタイア、結局別の車両で3位止まり、など、在りし日のゼロ戦の片手落ちさを髣髴とさせいかにも日本的ではないか。

更に現場を知らない自閉的な人々だと有事の際すら役に立たない。

鳩山由紀夫さん、菅直人さんなどは当て嵌まるのではないか。

日本が衰退するわけである。

アスペルガー的な人々はポストモダンの世に至って迫害され始めた、という考えは間違ってはいないが不適切である。私の直感だが、近代にとんとん拍子に出世した年配の自閉的な人間が若い自閉者を苦しめている。

自閉的な長老の周りにはその人の言う「ロンブー淳」のようなサイコパス的な人々が水和して高給をもらって性的資源を掻っ攫っていく。

その人々も悪いに違いないが水和物の中心には恐らく自分と同じ種類の人間が「コミュ力」の有る小者達に騙されて居るのである。

それで敗北した純アスペルガー的な人間は知能の至らぬ人々、不注意多動な人々のようなもっと弱い発達障害者を苛めて支配しようとする。何とまあ悪い事態ではないか。

でもここで、もしADD/ADHD的な人間が居れば話が変わってくるかもしれない、という形で不注意多動の人々を弁護したい。

何しろ衝動性があるので正しいことをクチクチ陰で言うのではなく公に言う。

悪が明るみに出る。

注意力散漫なので色々な所に目が行く上に他人の見てないところも見る。

 

アスペルガー的な専門家には限界も有るということを上のブログ主には分ってもらいたい。

あなた方の先人に率いられた社会はガザーリーが科学を衰退させたイスラム世界であり、ナチスによって振るわなくなった戦後ドイツであり、蛸壺化した学問世界であり、役に立たない高性能と品質で市場を失った日本である。

 

役牌ではない么九牌を捨てたくなるのは分かる。しかし一九牌を使う役も有るのである。なので件のブログ主には岩波書店の創設者あたりから可能性を探って欲しいものである。

 

【追記】

この時期で言及しているのは以下の記事です。

http://ukdata.blog38.fc2.com/blog-entry-2933.html

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諸亡霊の時代

父親が肩を揉め痛いところをさすれと、毎日気持が沈みがちになる。

私は私なりに忙しいのだけれども、父は未だに体の痛い所を揉ませてくる。

大学受験の時も時間を取られてきた思い出があるので「うらめしや」と言って呪ってやりたい気持になる。

でもそんなこと言わなくても、私も、そして父も亡霊なのだ。

父はとうの昔に大企業を辞め母や弟をいびってきた。なんとまあ亡霊でないか。

この家は土の壁が崩れかけ、風呂場の蛇口は折れ、便座は外れかかっているのをコンクリートで留めている。

ベッドは横たわるだけで軋み、カーペットは20年近く使った汚いものである。机ともなれば母から受け継いだ半世紀物である。

ポケットにはスマートホンの一つもない。

それでいて有るべき天下国家を語る。でもそういう所がまた、亡霊なのだ。

父は20世紀の亡霊だし、その子の私も21世紀に行けなかった亡霊だ。

ただ本物の亡霊と違うのは首でも吊って人生を終わらせれば成仏するという事だ。死後は、無い。

死後が有ると仮定すれば、忽ち今有るこの肉体との連続性はどうやって証明するのかという問題が出てくる。

そこで連続性を担保してくれそうな霊魂を持ち出せば、霊魂はどうやって物理的に観測すれば良いのかと言う問題がまた出てくる。

「死ねば楽になれる」

そうかもしれない。ただ私が死なないのは成仏できないからである。

所謂「こんな負け犬のまま死にたくはない」である。

ラジオでポール・マッカートニーが日本公演を病気でキャンセルしたと聞く。

齢70余り、正に歌う者も聞く者も亡霊である。

今日世界は亡霊で満ち溢れている。

諸亡霊の末席連ねる私もまた、成仏せずに、精一杯世界を呪ってやろうと思う。

頑張らないと。

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母の潔癖

母親に、ヒアルロン酸を注射したので今日一日だけ風呂に入れない、と言っただけで嫌な顔をされた。

元来女性と言うのは潔癖症の人が男と比べて多いような気がする。

ここで話を大きくしてみたいのだが、女性が仕事場に入ってきた事が先進国の経済の質を換えてしまったと言う事はないのだろうか。

何しろ女性がおばさんでも居ると、見た目、身だしなみ、体臭を過剰に気にしなければならなくなる。

女性と共に働く、ないし女性に権利を分与する社会になって我々は見た目を昔よりずっと気にするようになったのではないか。

女性を含めた人の目を気にする社会は当然男社会とは全く違うものとなろう。

けれども男が女の目を気にしだして争い・戦争も少なくなったかもしれない。

個人的にはここで”男は争いを生み出す、女は不景気を生み出す”と言ってしまいたいがどう自分でそういう考えに至ったのか考え直す必要がありそうである。

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”絵画性愛”という区分

今日は自らの目標に向けた努力が出来ず、朝から煩悶している。

なので気晴らしに(とは言っても毎回同じ時間帯にしている気がするが)日記を書いておこうと思う。

 

「オタク」と呼ばれる人々の地位が随分高くなったなあ、と思う。

昔はコンビニエンスストアにオタクグッズが売られるなどと言う事は考えられなかったし、アニメソングが上位に上がるという事も無かったはずである。

が、生まれて直ぐにアニメを見ていたはずの自分は、年の所為もあってか、最近どんなアニメも見ていない。

勿論少しばかりは忙しくなったと言う事はある。

しかしそれ以上に情熱が湧かないのである。

ストーリーがすんなりと頭に入ってこず、マンガの1ページを捲るのも目がちかちかして進められない。

思えば、昔からそんな傾向は有った気がする。

しかし昔は自分が何か漫画・アニメの主人公そのものとは言わないけれど、主人公じみた者になれるかも知れないと言う淡い期待で読んでいた気がする。

が、それも今は期待は脆くも崩れ去った。残っている夢だけで今の私は生きてはいると言う現状は無視出来ないのだが。

正直言って馬鹿馬鹿しくなってきたのである。それで買った漫画を読みもせずに売って、何だか恥ずかしい思いをしている。

それで最近は自分は元々オタク等ではなかったのではないかと思うようになった。

元々”役にも立たない”作り話が好きではないのである。

それで「リア充」の輪にもオタクの輪にも入れず、無趣味へと突き進む。

その癖絵に描いた女には欲情する。現実の女よりも遙かに、である(それも衰えてきた気がするが・・・)。

私の如き人間は「オタク」などと言う誉れは辞めてピクトフィリア、絵画性愛者と言ったほうが良いのではないか、と思う。

これは私に(多分空気が読めてない事に加えて)集中力が恐らく無い事も関連しているかもしれない。

架空の世界に没入する集中力が備わってないから、オタク性が揮発するのである。

その代わりに集中力の無い人間に何が出来るかはまたの機会に考えようとは思う。

ともあれ自分をオタクと思って重厚長大なストーリーものも軽薄短小な「日常系」も楽しめてない人達は今一度自分が絵画性愛者である可能性を検討した方が良いかもしれない。

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「コンクリートから人へ」は悪かったのか

所謂「ネトウヨ」的な人による時は特にそうなのだが、民主党脊髄反射で非難されすぎではないか思う時がある。

すぐに思い出すのは事業仕分けが実施され、当時村田蓮舫議員が「2位では駄目なのか」と言う問いを発した時、少なからぬ人がヒステリックな反応を返したことである。

勿論結論が「やはり2番では駄目だ」と言うものになる可能性は高い。

だが議論せずとも良い訳ではない。全ての既存のものを議論などせずに良いで済ますならば宗教に堕してしまうではないか。

我々日本人は、均質さや遺伝から来るものと思われるが、保守に過ぎるのである。これは我々の思考の”癖”なのだから毎度注意しなければならない。

それに民主党が左翼的一辺倒だったわけでもない。

 

さて私が特に民主党時代の思い出で問題としたいのは「コンクリートから人へ」というスローガンが(民主党に実行しえたとは思えないが)それほど悪いものだったかと言う事である。

何しろ、(ケインズ起源)自民流の建物を建てましょうでは、後に何も残らない。

コンクリート製の建物が日本社会のイノベーションの総和を増やすようには思えないのである。

親方日の丸、社会主義リアリズムで建物を建て、姉歯の様に手を抜くのでは、建築工学も発展しない。

民主党のスタンスで問題とすべきなのは”弱者”への無条件の奉仕の姿勢であって、現在の自民党の「人からコンクリートへ」も早々に行き詰る。

民主党無償化すべきものを間違っていたのではないか。

私の考えとしては「高校の無償化」を進めるのでは費用対効果が悪すぎる。

ポストモダンの世になって文系の研究にも数学は必要である事が再び思い出されてしまった。何しろ、定量化できないともう調べることが無い。

第一、ライプニッツデカルトも数学者だったのである。

しかし古文漢文が役立ってないのは恐らく確実なので「理系教育の無償化」をすべきかと言うと、これでもまだ範囲が広すぎると思う。

未だ力学を修めず、電子工作も殆どしたことのない高校生に電磁気学の本質が分かるのだろうか。いわんや量子力学を教えんである。

それよりは範囲を思い切って狭めて「ニュートン力学の教育無償化」を目指せばよかったのではないか。

勿論極限、多変数の微分など、数学的基盤をもきちんと教える。

ケインズ熱心な自民党もこれ位の予算はコンクリートを削って持ってきても良いのではないだろうか。

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