読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「文系」であるということ

「文系」人間であるというのはみじめだ。

とにかく世の中の役に立っているという自信がない。

理系の人間ならば当然新しい技術で役に立つ事が出来るし、理系でなくともデザイナーや音楽家や漫画家・イラストレーターは他の人間が一朝一夕どころか才能が無ければ一生かかっても手に入れる事の出来ない技術で世の中の人間を楽しませて貢献している。

体育会系はダイエットの指導や本人がオリンピックなどの世界大会に出場することで世の中の役に立っている。

しかし文系はどうだろうか。何かの役に立ったためしがあっただろうか。

周りの人間は「いや文系も違う意味で役に立っている」のだとか「いや役立つだけが学問ではないのだ」と言うけれど、この「いや」や反還元主義的な主張がいかにも怪しい。

そもそも本当に役に立っているのなら本当は役に立っていると声高に主張する必要などさらさらないのである。

「お金に還元できない価値」とか「物理学に還元できない存在」とかはそもそも形容矛盾である。

価値があるものはどう禁止したところで交換の対象になり、したがってお金に還元しえてしまう。

「存在する」という事はそもそも物理学で扱いうると言う事と同じ意味である。

それで堕落した世の中に警鐘を鳴らすと言う事が仕事になる。これで世の中に付加価値を付けたつもりになれる。

今日もFacebookには「ともだち」のそんな警鐘が満ち溢れている。

お前が普段何気なくしていることは実は差別であるとか搾取であると言って人々をなんとなく不安にさせたり羞恥心を抱かせる。これが我々が役に立っている証左だと胸を張る。

「大きな物語」は死んだのだろう。それで実際はこまごまとした研究テーマを皆がする。

でも今度はそんな研究テーマはお金を払っている国民の皆さんが知りたがっていることなのか、という問題が出てくる。そんな国民の皆さんを前にして我々の口は最初の誤魔化しに戻る。

こんなことになったそもそもの原因を考えてみると、文系というのは発見が少なすぎるのではないかと思う。

とにかく発見が少ないのである。

歴史学は文献や考古学の発掘を纏めればそれで終わりである。

言語学や人類学も記述の向こうへはいけない。

世の中の役に立とうと例外的な事実を持って来たり超越的な解釈をすれば前世紀から今日に至るまで続く何でもあり状態になる。実証学問としては生まれたときから虚弱だったのが死ぬ。

日本語の起源やありもしないノストラティック超語族を論じたり、ありもしない搾取を声高に叫ぶ羽目になる。

心理学でさえ「そんなこと当たり前」は越えられていないのではないか。

人間の心の中にはもともと他人の心理を察知する能力が備わっている。

進化心理学的な考え方をするならば人類はそのように進化した、要するにそのような能力を持つ者以外は死んでいった。

つまり当然のように心理学的事実を知る我々は進化心理の「巨人の肩の上に立つ小人にすぎない」。

だから必死に実験をして新事実を発見しても進化の巨人の手のひらで踊っている、と言う事になる。

どうすればいいだろうか。

希望というにはあまりに儚い結論だが、一つは既にそろってしまっている文献資料やフィールドのデータをもう一度丹念に読み返す。

もう一つは数学的素養(確率・統計だけではなく微積分学も!)を身に付け、あくまで科学者として人間研究を推し進めていく。

どちらも茨の道であるし、これらをしたところで20世紀の栄光が取り戻される保証もない。

広告を非表示にする