Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「無限」と「連続」の分からなさ

ε‐δ論法についての本を読んでみた。

文系の私がなぜ数学の本を読むかと言えば文系にも自分の文系性にも嫌気がさしているからである。無論何を書いてあるのか余り分からなかったのだが。

ともかく素人なりに疑問に思ったことを書き連ねてみようと思う。

まず疑問に思うのは、誰もが思う事なのだろうが、この論法による証明というのは何の役に立っているのだろう、と言う事である。

役に立つのか、という言い方は下品なのかもしれないが余り軽視できる問題でもないのではないか。というのもε‐δ論法無しでも微分積分学は瑕疵なく成り立ってしまうのではないかという疑念が消えないのである。

それにε‐δ論法を学んでも今までの極限に関する疑問は解けなかった。

例えば私には y=x² の微分と y=1/x の微分が同じ計算プロセスには見えない。

y=x² の微分は h ないし Δx を微分後に残る項から放り出せているのであるが、y=1/x の方はどうやら項の外には追い出さなくても微分できるらしいのである(下のリンクは金沢工業大学の解説)。

http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/q-and-a/bibun/henkan-tex.cgi?target=/math/q-and-a/bibun/question6.html

高校時代に他にも項の外に0になる部分を追い出さなくても良い計算を見た気がする。

しかし同じ高校時代に正しく極限を求めたつもりなのに間違えたという記憶がたくさんある。

こういう計算ミスを防ぐことはε‐δ論法はやってくれないのだろうか。

 

もう一つ疑問に思ったのが繰り返される「実数は連続である」という言葉である。

別の本でも「無限」と「連続」は異なると論じられているが、どういう違いがあるのかは今回読んだ本でも分からなかった。

私は「有理数はスカスカである」という表現にどうも納得がいかない。

有理数でも無限に細かく分けていけるというのなら遂には連続な直線に至りそうなものだが。

有理数では√3で実数を切断することをできないなどの主張はなされるのだがやはりしっくりこない。

むしろ有理数と√2やπなどという無理数は完全には翻訳できないという言い方の方が素人にはしっくりくると思う。

むしろ実数というのは連続しているというよりミルフィーユのように幾重にも重なっているのではないか。

幾何学的に言うならば直交座標の上に極座標、斜め座標等々が重なっているように見えるのである。

まあおそらく反駁が既に用意されているだろう。

しかしそういう異端的な学派は居るかもしれない。今度調べてみようと思う。

彼がその後学派を形成したのかは分からないが、ウィトゲンシュタインの「実数は様々な数の寄せ集めにすぎない」という主張が私の頭の片隅にある。

いずれにせよ物理的な対象のように認識の対象とはならないものを、こうだとすると不都合が起きるからこうであるはずである、というのは良いのかどうか、そのあたりが納得できていない。

検索でこの文章を読んだ人がいれば、文系人間の戯言を見せてしまったことをお詫びしたい。

(追記)でもどうも数学には自分を疑う「哲学」的な部分と、自分を正当化する「法学」的な部分があり、無限と連続というのは後者であるような気がしている。(追記終)

余談だがウィトゲンシュタインは神秘主義と論理相対主義的な主張ばかりが顧みられて、本当に内容のあるこういう些末な所を無視されがちなのはいささか残念である。

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