Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「語りえないもの」の範囲

先日の記事でウィトゲンシュタインの名前を出したので、ウィトゲンシュタインの思想について少し考えてみたいと思う。

とは言っても最後に読んだのが大分昔なので記憶もおぼろげだが。

ウィトゲンシュタインと聞いてまず思い出されるのが『論理哲学論考』の最後を飾り、

恐らく後期の思想においても暗黙の前提とされている

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

という一句である。

この一句に多くの人が衝撃を受け、陶酔し、彼の思想のファンになった。

私もその一人で高校生の頃は授業中に電車での帰り道に延々と自らの内なる神を探し出そうと必死になったものである。

さて彼の思想の中で一番疑問に思われる箇所もこの句である。何しろ第7節はこの一句だけで終わってしまうので「語りえないもの」が何を示しているのかは判然としない。

彼の思想について話をしようと思うとほとんど個人的な思い出話になってしまうのだが、最初私は「語りえないもの」が”心”を示しているのだと思っていた。信じようとしていたと言っても良いかもしれない。

”意識”ではなく”心”である。

自我のみならず、「美味しい」や「人を助けて気持ちいい」といった善なる感覚、「守りたい」などの善なる欲求、「許せない」つまり義憤などと言った感情もひっくるめたものをその頃の私は”心”だと言っていた。

善なるものに限定にされているところが当時の私なりの無意識的な工夫である。

これで我々の心の善なる部分は、私自身の心は心理学の恐るべき魔の手から守られ悪の部分だけが心理学の猛攻を受けることになる。

が成年に近づくにつれ自分の心の中には何も善なるものが無い事が分かってくる。

来る日も来る日も自分の心に去来するのは受験期の親や教師への恐怖、自分と異なる人々への憤怒、自分よりも優れた人への嫉妬、道行く女性への性欲などの否定的な感情ばかりなのを鮮明に覚えている。

その内善なる心についても疑念が浮かんでくる。

善なる心というものも所詮進化によって獲得されたものにすぎないのではないか。

それはつまり善なる心も語りえてしまうと言う事なのではないか。

こうした経験があったので今の私はウィトゲンシュタインの「語りえないもの」が語りうる範囲については懐疑的になった。

自分で勝手に解釈して自分で勝手に懐疑的になっていただけなのだが。

もとより「語りえないもの」について一句でも語っている時点でウィトゲンシュタイン自身も潔白ではないのではないか。

他の所で彼は「絶対的な安心感」を語りえないものと言っていたような気がするが、どうも彼は宗教を科学から守ろうとしていた節があるように思える。

常々ウィトゲンシュタインは我々文系の受けが良いような気がしているが、ユダヤ系のクォーターとして彼が技巧的にはアングロサクソンに染まりつつも、精神的には英米的実用・還元主義には染まらなかった事にルサンチマンめいた感動を覚えるからかもしれない。

彼について調べているとこんなYahoo!知恵袋も見つけた。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1037354485

『数学の基礎』を読もうとしていたが、この飯田隆という人の本をまず読むべきなのだろう。恥じ入る気持ちがまた増してしまった。

今ではアングロサクソンの”洋魂”こそが我々が学ぶべきものの気がしている。

フレーゲはゲルマン民族だったが、どちらにせよキリスト教のようなセム系民族の文化の混じり気なしの印欧人の精神性というのは他の民族には死に至りかねない劇薬なのである。

 

勿論彼の思想はなお魅力的な点が沢山ある。一つは限りなく突き詰められた独我論で、これは我々の世代に身近な例では永井均を始め多くの人によって語られている。

私も稚拙かもしれないが自分の考えを改めて書いてみたいと思う。

もう一つは『論考』にある「世界は私の意志には依存しない」という句である。ウィトゲンシュタイン自身も素通りしている箇所だが、これを純粋に論理的なものとせず突き詰めていくとゴータマ・ブッダの無所有の思想になる。

しかしともかく言っておきたいのは彼の思想を神聖視するのは良くない言う事である。

日常的な議論の最中に出さない方が賢明である。

広告を非表示にする