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Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

残る「語りえないもの」

前回の話の続きを書き記しておこうと思う。

前回言った通り結局のところ私はウィトゲンシュタインを今でも信奉しているのだが、それは彼が<私>についての考察を極限まで突き詰めたと考えるからである。

「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という言葉を「心は心理学や生物学に還元されえない」という主張だと受け取ると破綻をきたす。

個々の感情や感覚などは飽くまで(ラカン的な理系用語濫用趣味をひけらかすならば)ブラックホールの周りの黒い部分でしかない。ブラックホールの本体は中心の広がりを持たない特異点だけである(この例えはどのくらい間違っているのだろうか?)。

神秘の消滅を恐れず語れるものを「語りえないもの」から排除していくと、無色透明の<私>だけが残る。

<私>とは言っても実体を持った存在の事ではない。存在しているものはすべて語る事が出来る。ここで言う「存在する」とは「観測される」と言う事である。

誰に「観測される」のか?<私>によってである。しかし<私>自身は「観測される」ことはない。

故に<私>は「存在」の範疇に分類する事が出来ず、「語りえない」。本質が損なわれていることを恐れず永井均等のウィトゲンシュタインの哲学を二言三言で無理矢理表現すればこうなる。

しかし<私>と名付けてしまうとまた<私>を魂のような存在であると言う見方に引きずり込まれてしまう事になる。

私なりの永井均などの本を読んだ上での解釈でだが<私>を辞書的に記述する事を試みる。

<私>とは飽くまで「存在」ではなく論理に類似した観測されないがそうとしか考えようのない「状態」のはずである。名詞だからと言って動詞的であることを躊躇してはいけない。

<私>とは「世界が(何故か)今ここから見えている」という事実である、と定義する事が出来るのではないか。

<私>とは決して形而上学者の感傷的な妄想ではないと思う。だからデネットのような思想には何か物足りなさを感じることになる。

かといって霊魂のような「存在」であるという見方にも反対である。<私>が霊魂のようなものだとすると、死後の世界や、自分が別の人間に何時の間にか入れ替わっているという可能性が示唆されることになるが、そのような霊魂的な<私>はどこにも観測され得ない上に論理的に必然というわけではない。

というのもまた別の記事で詳しく書き記しておきたいのだが「<私>が未来や過去の「私」と同一である」であるという言明は立証も反証も出来ないのである。

神秘主義を排して「語りえないもの」とは何かを考えるならばそれは飽くまで「世界が(何故か)今ここから見えている」と言う命題ただ一つしかない。その他は常に語りうる。人間の”心”は侵しがたく、至高の存在ではないし、物理的には肉体は滅びたまま元に戻らない以上、死後霊魂が別の肉体に転生したりヘヴン、ジャンナの類に赴くと言う事もないはずである。

しかし本当に死後の世界はないのだろうか?俄かにオカルト的な疑問になるが論理的なレベルで反証することも難しい質問だし、死後を信仰している人たちは今回の記事のついで程度の主張では否定されたとは思わないと思うのでまた自分の考えた反論を書いていこうと思っている。

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