Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「死後の世界」の検討

前回改めて別の記事で書き記しておくと書いていたことについて記しておこうと思う。

二つの事を後で書くと言ったものの一つのテーマの違う部分だと思うのでまとめて書こうと思う。

大半の無神論者は「死後の世界」の否定が科学だけでなされると考える。

しかし高校時代の私の如き思考の混乱した人間はこう考える、「いや、しかし『<私>が存在している』という事実は『私の肉体が存在している』という事実から独立しているのではないか?言い換えるならば『世界が(何故か)今ここから見えている』という事実は『私の肉体が化学反応を保っている』という事実と論理的な関連を持たないのではないか?」

無論ウィトゲンシュタインの影響である。論理的連関とは「~~p=p(強いて和訳するなら『pでなくない事はpである』となろうか)」のように言葉の言い換えに過ぎなければならない。どうやっても元の言葉から「言い換える」事が出来ず、経験から帰納的に導き出すしかない連関は論理的連関ではなく、必然的なものではない。それは太陽がある日突然西から昇る可能性が否定しきれない様に、単なる偶然の連鎖である。

何故自我と他の物の連関は論理的なものでなければならないのか。それは自我が観測されるものではなく観測する自分自身だからである。物理学で処理できるのは「観測される」ものだけであって、そこに「観測する自分自身」自体は含まれない、そう私は考えた。

そこから私はこう考えた、「では肉体が滅びても<私>は滅びないのではないか?」

小学校時代は死への恐怖から枕を涙で濡らし、「自分は天国を信じているのではない、確信しているのだ!」と強がっていた身からすればこの自らの結論は朗報であった。

そうだ私は天国を信じてもいいのだ。

だがちょっと待ってほしい。私が天国に行ける基準は何だろうか。

「我らが聖典の言う通りにしていれば天国に行ける。」

ユダヤ教系一神教の宗教を始めどの宗教も言う事である。

しかし当時の私はどうしたことかこれを科学の土俵に上げようとした。

科学は――帰無仮説というらしいのだが、反対のケースを仮定した議論も行わなければならないのではないか。

例えば――「われらが聖典の言う通りにしていれば地獄に落ちる」

これを「彼らが」に変えるとまたどの宗教も言っていることになる。

これを突き詰めていくと――「良い事をすると地獄に落ちる」

私は死後に関して少なくとも四つのパターンに分類できると考えた。

 

①良い事をすると天国に行ける

②良い事をすると地獄に落ちる

③良い事をしようと悪い事をしようと天国に行く

④良い事をしようと悪い事をしようと地獄に落ちる

 

さて皆様の好みはどれだろうか。

とどのつまり「良い事」をする事と「死後天国に行く」事は何の論理的連関も無いし、それ以前に観測されたことも無いので物理的な連関も無いのである。死後の霊魂が観察されるのならば、それはそれで科学者たちによって流体力学ならぬ幽体力学が体系化されることだろう。

今度は絶望が私を襲った、「私は死ねば成す術も無く、死後の世界を支配する物理法則に基づき、天国や地獄を連れまわされるのだろうか?」

そこで私は大学受験が近づいているにも拘らず、スッタニパータやダンマパダ、サムユッタニカーヤを読みふけった。

「自我そのものが消えれば地獄で苦しむこともないだろう」

だが自らの信じる経典にも解脱の具体的な方法は書かれていなかった。

それにまたもや私は余計なことを考えた。

「諸行が無償ならば、「悟りを開いた」その状態もまた無常ではないのか。」

平たく言うならばテレビゲームの主人公のように死んでも無理やり生き返らせられるのではないかと思ったわけである。第一精神トレーニングと自我の消滅が論理的な連関を持つようには思えない。

麻薬などの精神を攪乱する物質が肉体に入れば精神も間違いなく無明へと戻る。

私は今度こそ望みを失った「嗚呼私は成す術も無く六道を永遠に彷徨うのか」と。

 

絶望から抜け出すために嘘をつくのは嫌だったので暫く絶望していたのだが、考えてみたらそうした絶望もまた無常なものであったのかもしれない。今では気にすることもなく暮らしている。

これに対する有効な反論はまだ出来ていないのだが、なんとなく「<私>はそもそも未来や過去の「私」とも論理的な連関を持たないのではないか」という反論に至っている。

<私>というものが過去から現在を通って未来へと続くものならば、未来の私が別人であっても良いと言う事になってしまう(私は自分が未来において何時の間にかプーチン大統領になって北方領土を返さないと意地悪している可能性を考えた)。

「私」という言葉はこの肉体を離れては定義し得ない。これが第一の反論である。

二つ目の反論は現在における超越的な自我は否定しきることは出来なくても、過去や未来においては超越的な自我は存在しないと考えたことである。

「未来の私」は存在するだろうか。

それは「『未来の私から見た世界』が想像可能である」という以上のものではないはずである。

それはちょうどある「他者にも自我が存在する」と言うのは「『その他者から見た世界』が想像可能である」であると言っているに過ぎないのと同じである。

これも前回同様言葉の定義の問題である。

つまり未来の自分は存在はするものの他人と同じなのである。

だから私の今のところの反論としては「『私』というのは肉体を離れて定義することはできない。なぜなら現に「世界がここから見えている」事と「『世界がそこから見えている』事が現在の私にとって想像可能である」事は大違いであるからである。」というものになる。

いかがだろうか。

勿論ニーチェのようにそんなルサンチマンめいた反論をせず永遠回帰を覚悟するというのも大いにありである。

広告を非表示にする