Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「萌え」の正体

世間離れした話題が続いたのでメジャーな話題についても書いておこうと思う。

現在の漫画・アニメ業界において「萌え」系統の作品は主流になっている。例えそれほどでないにしても大きな一角を占めていると言えるだろう。

「萌え」系と言っても二通りの使い方がある。旧来の熱血・ヒーロー物の性別を殆ど全て女性に変えただけ、という作品を指す場合と、内容が無く美少女しか売りのないという作品と見做した作品を揶揄の意味合いで呼ぶ場合とがある。

日常系の脇役から熱血系の主人公まで悉く美少女である原因は”進化論的”に語る事が出来るだろう。即ち「そういうものしか生き残れなかった」。ミーム論である。

唯でさえ永続的な不景気で視聴者達はお金と自信を無くした。

きつく縛られた視聴者の財布の紐をこじ開けるには性的本能を刺激するのが賢明である。

上の人間に怒られ周りの人間に見下され疲れているのにモニター一杯に眉毛の太い自信満々の暑苦しい男達が出てくれば見る気が失せる。

道徳観の変化も影響しているのだろう。女性が大量死を起こすコブラのようなストーリーに真正面から憧れる事は今では難しくなった。

この同性嫌悪交じりのヒロイズム嫌いが昂じてくるとストーリーに多量に含まれるヒロイズムも嫌になってくる。こうして日常系が欲され、大量生産されていく。

でも下のリンクでも指摘されている様に「萌える」という行為は作る側が意図して供給できるものではない。

http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column39.htm

だからどんどん「萌え」は陳腐に、態とらしくなっていく。

作り手側の追撃をかわすためにオタク達も無限に背進していく。アニメ・少年誌のヒロインからセーラームーンカードキャプターさくらのような女子児童向けのアニメへ、四コマ漫画へ、次は「花とゆめ」や「Lala」のような少女漫画が標的にされるのか。既にされてないとも言えないのだが。

実を言うと最近私は我々オタクが求めてきた「萌え」、「萌え」がバズワードだと言うのなら「可愛さ」というのは蜃気楼のような実体を伴わないものだったのではないかと感じ始めている。

ここでしてみたい事は各々の中の「萌え」の出自を確かめる事である。

最初に「萌え」たのはどういうきっかけだったろうか。思い出してほしい。

自分から絵に描いた可愛い女の子を求めて専門店に行っただろうか。

最初は書店やインターネットで見かけたものを我慢できずに何度も見て、そして商品を恐る恐る買っていたはずである。

我々は「萌え」を自由意思で消費しているのではない。

かといって作り手側も我々消費者の心をコントロールできているわけではない(テレビやジャンプがコントロール出来たように見えたのは独占市場を使って「仲間外れにされたくなければ買わなければならない」と言う恐怖心を植え付けられたからだが、”悦び”の方を植え付けれたことはないと思う)。

各人の遺伝的な特徴などで自動的にどれを買うか決まっていたのだろう。

オタク産業にかかわらず消費というのは自由意思に基づく行為ではなく電池の両極に金属をふれさせると電流が流れるが如き”反応”だと思うのだがどうだろうか。

もっと言うならば娯楽とは麻薬の一種である。ただし脳が溶ける訳ではないし飽きが来るので問題にならないだけである。

こう言うと石原慎太郎都知事を幇助しているかのように聞こえるが、それに対しては戦後保守思想も娯楽の一種ですよと答えておくにとどまる(そもそも思想は娯楽である!)。

「萌え」もそうだが娯楽が消費者当人を幸せにしているか不幸にしているかは簡単には論じる事が出来ないので今のところはあまり書かないでおこうかと思う。

これに答えるには確固とした科学が必要であろう。

ただ「萌え」を消費する当人としては、あくせく「萌え」の幻影を探し求めるのを止めて、漫然と気が向いたときだけちょっとだけ「萌え」関係のコンテンツ商品を買うようにしていれば気持ちが楽になるのではないかと思う。

本物の「萌え」も「質の良い」アニメや漫画も存在しない。

それらはただの脳の反応である。

「好き」というのは動詞ではなく形容詞なのである。

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