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Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「悟り」とは何なのか

今日は私が私なりに解釈した「悟り」の意味について書き残しておこうと思う。

仏教の話である。

仏教において到達すべき目標とは「悟り」の境地である事は疑いない。

しかしこの「悟り」という言葉が何を指しているかがお坊さんに教えてもらっているだけでは判然としない。

「悟り」というのは「死後動物に生まれ変わったり地獄に落とされたりするリスクのある輪廻を彷徨わないように自我を消滅しつくした状態」なのだろうか。しかしそれだとジャイナ教の教義そのものである。仏教はジャイナ教と同じ宗教なのだろうか。

もちろんそう結論づけたくなるような記述も原始仏典にはある。

概念のみならず経典の句にまで共通点があるのである。

 違いが分からないのはジャイナ教徒とだけではない。

仏教に出てくる概念にはブッダの師であるアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタやブッダ以前に教えを説いていた六師外道たちの思想の影響も濃い。

例えば仏教の中でも重要な概念のひとつである「無所有」という考え方は明らかにゴータマ・ブッダが師であるアーラーラ・カーラーマから教わったものである。

では仏陀の教えの中でオリジナルなものはあるのだろうか。

これが有るとも言えるし無いとも言える。

さっき言ったように最初期の仏教の概念自体に新しいものは無いと言っていい。

むしろ仏陀の功績は仏陀以前の諸思想を統合したところにあるのではないか。

例えるならそれまでの数学の成果を微積分学として纏めたニュートンとライプニッツのようなものである。

それまでで主要な思想的部品は全て出揃っていたのだけれど誰かが纏め上げる必要があった。

加えて微分積分学の基本定理という最大の発見が必要だった。

 

私の考えでは仏教における「最大の発見」にあたるものは、「悟っても救われない」事である。

つまり自分に先立つ人達が考えてきた事は正しいのだけれども、それを自らの物としても解脱する事は出来ない、という事を仏陀は発見したのだと言いたいのである。

何故かというとそもそも解脱する自我そのものが、世界の中の他の存在と同じレベルの存在でしかないからである。

前に書いた通り、当然「悟りを開いた自分」というのも我が物ではない。

仮に苦行や座禅などの精神トレーニングによって自我が消滅へと向かっていくと言う話を信じるとして、神のごとき全能者が私を悪戯で復活させる可能性は否定できない。

第一「苦行や座禅が自我を永久に消滅させる」と言うのは当時の科学的知識では証明できなかったはずである。現在の科学でも不可能だし、未来でも不可能である。

覚者ゴータマはそのような理論的困難に目をつぶる人ではない。

身の回りのあらゆる既存の哲学を修め、苦行によって自らを殺しかけた人である。

彼はむしろ「自我はどうあがいても息を吹き返してしまう」という絶望的な事実から出発したはずである。

思うに仏陀は苦行によって死の淵に瀕した際に出会ったスジャータに恋慕の情を抱いてしまったのではないか。供された乳粥を美味しい、もっと食べたいと思ってしまったのではないか。

それで苦行の無意味さを悟り、別の方策を探した。

そして死の恐怖から、得られない苦痛から逃れる方策などない事を悟った。

これが事実ではないか。

だから他の場所でも仏陀は神秘的なもの、絶対的な安心感を拒絶している。死後も「そんな事は分かり得ない」と言って退ける。無記である。

何故社会との交わりを避けろと言ったのか。欲望とは、欲望との対象を認識してしまった事によって発生した「得られない苦痛」だからである。故に欲望の対象に出会わず、認識してしまったものも忘れてしまうのが良い。

「欲望」などというものの正体は人生の意味などではなく単なる苦痛であると言う事である。

美味しい食べ物の匂いを嗅がないようにし美しい女性も見ないようにするのである。

 

でもそれは単なる人生を楽に生きるためのツールである。「悟り」は最終目的ではない。というより、人生の目的は「天国」でも「現世利益」でも「悟り」でもなく、そもそも無いのである。

人生は永く苦しいだけの徒労である。楽に生きられたからと言って見返りは唯物論的に見ても精神論的に見ても、無い。

自殺が禁じられる理由は、「私が死ぬのが怖い」からであり、「自殺場所を公認すると悪用される恐れがある」からである。

ただし私は、死後が虚無だとすると余計に人生における苦痛の総量が自殺した場合としなかった場合とでの違いを査定できないと言う問題もあると思う。

死後が虚無なら、生きている間の苦楽もそれぞれの時点におけるバラバラの「私」に起きているにすぎない。ラカン的文系数学趣味で「積分不可能」とでも言おうか。

 

そこから話を展開して、最後にそれならば何故仏陀がそんなに悟りを開いた後も安寧に過ごしていたのかの私の考えを書いておきたい。

前回の繰り返しになるが結局自我とは「世界が(何故か)今ここからみえている」という事実の名称である。その状態が永続するという事は論理的には導き出せない、というか「世界が認識される状態が永続するか」と言う命題は論理的には意味をなさない。

現在の自分が現に(こうやって記事を書いている)自分から見た世界なのに対し、未来の自分は頭に浮かぶ風景にすぎない。

「『世界が今ここから見えている』事は十年後も続いている」とか

「『世界が今ここから見えている』事は死後も続いている」というのは、当然なように思われていて誰も確かめようがない。

単に「そこから見えていることを想定する」ぐらいなら他人の心とかコウモリの心でもできる。

そして実際に「現に今ここからコウモリとして世界を見ている」事は論理的に不可能である。

つまり未来の自分からも世界が現に見えるかどうかは確認しようが無い。

論理的に確認しようのないと言う事はつまり現在の自分と過去や未来の自分が同じだとか同じでないと言うのはナンセンスであると言う事である。

逆に考えれば「未来の自分」の定義自体が「『そこから見た世界はどう見えるだろうか』という想定」である。

だから時間的な連続性を持って永遠に存在し続ける自我みたいなものを想定するのは無意味である。時間的連続を持った「自分」と思っているものは自分の肉体以外にありえない。

故に、肉体に拘らなければ[1]苦しみは有限の範囲内に収まる事を知る。

これが仏教における「救い」ではないだろうか。

超越的な「救い」が必要なかった、と言う話なので端的に言って私の考えでは、覚者ゴータマの仏教は無神論どころか反宗教である。

 

と言う事を考えてインターネットを見ているとこんな記事が見つかった。

http://lifehack2ch.livedoor.biz/archives/51450923.html

どうやら皆知っていたことらしい。インターネットは自分より賢い人がごろごろ居て恐れ入る。

 

[1] 超越的な救いに拘らなければ、と書くべきでした。訂正します。

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