Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

我々は今一度「神」を否定できるか

「神」は存在しない、と言うと決まって帰ってくる答えの一つに、「存在しない事の証明は出来ない」というものがある。

科学は「神」が存在すると積極的に主張するに足る如何なる証拠も発見しなかったが、同時に存在しない事の証明も出来ていないと言う主張である。

もちろんこのような詭弁を真に受ける謂れは無い。根拠ない仮説を許容すればどんな主張も科学的に有効になってしまう。でも科学からもう少し離れて純論理的には科学が丸ごとひっくり返って有神論者が正しかったと言う事も考えられるわけである。

しかしやはり「『神は存在しない』という事は証明できない」という消極から「神は存在する」と言う積極に出る事は出来ない。

根拠が無ければ仮説など無限パターン立てられるのに、どこから「神がいる」という仮説を持ってきたのだろう。

それだけではない。大抵の宗教では「良い事をすれば天国という褒賞を受ける事が出来、悪い事をすれば地獄に落ちる」と説かれている。

不思議な事に死後に於いては信賞必罰が徹底されているのである。

以前からこのブログで書いてきた事だが、私にはあらゆる宗教において何故か善行が天国に行くことを引き起こし、悪行が地獄に行くことを引き起こすという仮説が受け入れられている事が疑問でならない。

それは「神」が善に味方し、悪を裁いてくれるからである、という事になのだろうが信仰者でない私には余計に分からなくなる。

なぜ宇宙の管理者がホモサピエンスと同じような心を持つ上に、いつも決まって自分たちの側についてくれるのか。神の内面がホモサピエンスに似通っていた所で、どう考えても救いがたく醜い人類を憎んでいる可能性はないのか、汚職や賄賂で不公平な裁判をしないのか、そうした疑問には納得する答えが返ってくることはない。

ここでも人は消極から積極へ出る事は出来ない。

「造物主」は存在し得ても「神」は存在し得ない。「世界を構築した知的生命体が存在すると」言う仮説は取り敢えずは論理的には成り立つとしても、「その知的生命体は人類(特に最も信心深い私を!)愛して護ってくれる。死後には天国に行ける」という仮説はそもそも論理レベルで既におかしい。

なんとなれば「世界は私の意志には依存しない」のだから。死後の世界も同様に私の意志には依存しないのである。

 

では何故そもそも人は根拠も無しに「神」を信じれるのだろうか。

「死の恐怖を紛らわせる為」

「地獄行きの恐怖で犯罪を低下させ社会を維持する為」

どちらも一理ある。この説明と”だから宗教は社会に必要である”という議論は耳にタコが出来るほど聞いてきたのだが、釈然とせずにいた。

しかし進化論の魔手が人類の心にも及び始めて、気楽に「宗教は役に立つ(ので否定してはいけない)」という主張をする訳にはいかなくなりつつあるようである。

神はなぜいるのか? (叢書コムニス 6)

神はなぜいるのか? (叢書コムニス 6)

ヒトはなぜ神を信じるのか: 信仰する本能

ヒトはなぜ神を信じるのか: 信仰する本能

ボイヤーの『神はなぜいるのか?』では進化心理学ミーム学的な手法を用いて人が何故宗教を信じるのかが説明されている。大変分厚い本だが、その主張を一言で言うならば「人間の印象に残り易い性質の宗教だけが生き残ってきた。」というものである。

べリングの『ヒトはなぜ神を信じるのか - 信仰する本能』では同じく進化心理学の観点から宗教が説明されている。

両者ともに、ヒトは(陰謀と陰口に満ちた)社会生活に生物学的に適応してきたので他人の見ていないようなところでも(本当は誰か見ているかもしれない!)視線を感じ、それによって罪悪感を感じ、また社会生活あらゆる存在に目的や設計者を見出してしまう、「心の理論」を宗教の原因として挙げている。

 両者とも共通点が多くボイヤーの方が先に刊行されているため、べリングに新しいものが無いように聞こえるかもしれないが、べリングの本の方も心の哲学との関連など多くの独自のテーマが論じられている。

特に私の印象に残ったのは自閉症の人々の宗教観である。

 

「―――自閉症者にとって、神は(中略)宇宙の構造の形成に直接関わっている顔の見えない力か、あるいはまったく冷徹で合理的な科学的論理へと還元されている。」

[ベリング, 2012, p107]

 

「―――ないです。偶然の一致は偶然なんだから、パターンなんてないですよ。」

[ベリング, 2012, p203]

 

これでは英米哲学ではないか。古典物理などの自然哲学もその一部だと言っていいかもしれない。

英米哲学の人々は大昔のオッカムのウィリアムからヒュームやバークリ、自然哲学のニュートンを経てダーウィンや現代の彼の弟子たるドーキンスに至るまで物事の向こう側、真実の世界を捨てたのではなくてそもそも見えていなかったのではないか?

とすると彼らは自閉症の人であったかそれに類似した脳の持ち主ではないのか。

それこそが社会を産業革命というブレイク・イーブンにまで持って行った原動力ではないのか。

中世イスラム世界にもオマル・ハイヤームやイブン・ルシュドのような向こう側、真実の世界を要らないと言った人はいた。

中国にも韓非子のようなリアリストは居た。

我が国の関孝和もそうだったのかもしれない。

しかし産業革命の発火にまで至ったのはイギリスだけであった。

これはイギリス社会が魔女の存在すら許す変人許容社会、自閉症許容社会だったからではないのか。

他の社会にもそういう人はいたが彼らの意見は「心の理論」卓越社会に飲まれ内発的な近代化に失敗したのではないか。

日本が東洋で初めて近代化したのはイギリスと同じく辺境であった所為でイギリスほどではないが”変人”を許容したからではないのか。

自閉症と世俗化と近代化は一本の線で繋がっている気がするのである。

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