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Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

専門性無しに「新型うつ病」を語っても良いのか

 感情的になるな、と偉そうに言った矢先なのだが、少し感情的になって記事を書き残しておこうと思う。もしかしたら、この間から取り上げている自閉症アスペルガー症候群にも関係しているかもしれない。

感情的になったのは大手まとめサイトの『痛いニュース』でこのような記事を見つけたからである。研究もせずまとめサイトばっかり見て、と怒られそうだが。

 

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 「新型うつ病」がクズすぎると話題に - ライブドアブログ

 

 

見てもらえば分かる通り「新型うつ病」に対する批判・侮蔑の嵐となっている。

しかし心理学的に正しい批判がどれだけ存在するかは疑問である。

単なる我儘だと皆で吊し上げている様は気味が悪い。

確かに医学的に公式な意見ではないのだろうしこの概念が妥当であるようにも私にも思えないのだが、罵詈雑言を言っている人たちのどのくらいが正確な医学的知識を持っているかは疑問である(残念ながら私も持っていない。文系研究者を目指す者というのはピエロのようである)。

特に「これでうつ病診断して、長年クスリ投与や通院させる医者はボロ儲けだな。」という意見は、どうやって確たる証拠も無し(どうせこう言うと細やかな「証拠」をベタベタ貼り付けてくるのだろうが)にその確信に辿り着いたのかを考え直してほしい。

こういう人は自らの「心の理論」を信じ切ってそれに騙され易いのではないか。

生業が狩猟採集によって成り立っていた頃の原始社会では悪だくみをする動機のある人間を証拠もなく片っ端から粛清して回った方が効率が良かったことは想像に難くない。

 

『痛いニュース』というまとめサイトはこういう話題の時だけでなく、原子力発電の話題になった時も、理性的とは言えない”スレッド”の理性的とは言えない意見ばかりを取り上げる傾向があるように感じる(このサイトで取りあげられる”書きこみ”やこのサイトの管理人は原子力についてどのくらい知っているのだろうか?)。

また弱者の利権だけでなく弱者そのものを叩きたがるきらいもある。

インターネットユーザーが皆こうだとは思わない。むしろ個人的には大多数は公平な人だし、インターネットの登場によって、マスコミが世論を支配していた時代とは違って様々な人々の様々な意見が公表できるようになったと考えている。

ただ、インターネット世論の勃興に伴って活気づいてきたこの様な反正義的(ニーチェ的、と言えるかもしれない)な考え方は、登場時こそマスコミや教育機関の画一的な意見を打破する劇薬として機能していたが、今となっては自分たちが批判していたマスコミと同じになってきた様に思えてならない。

こうなったのは旧体制を批判する自分達も旧体制と同じ素朴心理学しか批判の為の道具として持ち合わせていなかったからではないのか。

つまり「お前達はどうせこんな魂胆があるのだろう」と(「暴露の素朴心理学」とでも言おうか)根拠なしに言って非難する事しかしていないのである。

端的な例ではフェミニズムもインターネットの普及に伴って噴き出してきた反フェミニズムも「お前達はどうせこんな魂胆があるのだろう」という事を言っている(しか言っていない)事を思い出してほしい。

今こそ批判にもきちんとした科学的素養が必須となっているのである。

 今一つの批判点は、彼らが偽の鬱病批判に終始していて本当に典型的ではない鬱病が存在する可能性を見逃している点である。

 自閉症スペクトラムの人間だと中心的な自我が発達せず、「私」が別々の”タッチパネル”に分裂している所為で、ある時は(あるタッチパネルに本人が居るときは)楽しそうにしているのに、直後急に鬱病状態になると言う事が本当に起きる。そのような事例が広沢正孝著『成人の高機能広汎性発達障害アスペルガー症候群―社会に生きる彼らの精神行動特性』で紹介されている。

 

成人の高機能広汎性発達障害とアスペルガー症候群―社会に生きる彼らの精神行動特性

成人の高機能広汎性発達障害とアスペルガー症候群―社会に生きる彼らの精神行動特性

 

 

私には『痛いニュース』のような人々がこのような例まで脊髄反射で批判することが危ぶまれるのである。

 こういう義憤に燃える人達に一言言っておきたいのは、何かを激烈に批判する前に、耳と口の間に頭を挟みませんかと言う事である。

我々には一旦「義憤に駆られて書きこみや声明発表、あるいは論文発表をする」事を止めてみて、「自分が間違っている可能性も含め様々な可能性を考える事を純粋に楽しんでみる」事が必要なのではないか。

つまり「考える為に考える」事が楽しむためにしろ理性的な議論をするためにしろ必要なのである。尤もそんな事を徹底すれば皆がモチベーションを失って誰も意見を言わないし人文社会科学的な研究をしない、と言う事になりそうだが。

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