Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「知識偏重」は駄目な事なのか

 最近気持ちが暗くなってしまい何も書く気が無かったが、短い文でもルサンチマンじみた内容でも自分自身にとっては意味があるのかもしれないので書き残しておこうと思う。

気になったのは以下のニュースである。

 

大学入試改革 職業資格試験も活用 簿記など提言へ 教育再生会議

http://sankei.jp.msn.com/life/news/131027/edc13102702060000-n1.htm

 

引用した記事の「工業高校の生徒が取得した資格や技能を点数化して評価する「ジュニアマイスター顕彰制度」」は面白い案だと思う。結局今までの受験制度は「サラリーマン」しか生み出せなかったのだから。

以前の記事では否定的な意見を書いたが、現安倍政権には法人税減税案など良い傾向もみられるようだ。もっとも自由民主党は(共産党も民主党もだが)近代の政党なので実際にこの「脱近代」の時代に見合った政策を実行に移せるのかは疑問ではあるのだが。

色々な案を国を破壊しない程度に試していってほしいと思う。

ただ「学力だけの知識偏重の入試制度を改め」と言っているあたり、まだ20世紀の教育制度を引きずるつもりなのかもしれない。

 そもそも「知識偏重」は駄目な事なのだろうか。

勿論私も月並みな、「センター試験になってから日本の教育はだめになった。」のような意見にはある程度は賛同する。

ただし私には知識を詰め込む教育が駄目なようには思えない。

知識は詰め込んでこそ生きるものなのである。知識の土台無しに、考える力や発想力が出てくると思ってはならない。

私は、我々は教育に関して大きな思い違いをしていると思っている。

それは「「速く解ける」と言う事が生徒の「考える力(あるいは習得度)」を示している」という思い違いである。勿論、根拠の怪しい暗黙の仮定である。

センター試験英語筆記80分、数学はⅠA・ⅡBそれぞれ一時間、これで考えて問題を解く暇があるだろうか。

私がいくら練習しても手が追い付かなかったから僻んでいるだけだという面は認めておこう。

しかし中学数学の証明で思い出のある人も居ると思うのだが、手の速さというものは生まれつきかなりの程度決まっている。

知能検査などでも「処理速度」の項目があるようである。

自らの実感も合わせて言うが問題を解く速度、手の速さというのは明らかに人それぞれ生まれつき、である。

それにもしも子供が深く考えているがゆえに回答が遅かったらどうするつもりなのか。

環境・努力で子供は幾らでも伸びるという願望交じりの仮定が子供たちを苦しめているのではないか。

そしてその仮定が「努力すれば誰でも問題を速く解けるはず」という悪しき観念に繋がる。そして回答時間は過度に短いままとなる。

それでいざ大人への門を叩く段になって、お前には無理だ、というのである。

生まれつき知能にも手の速さにも違いはある。最初から子供たちに告げた方が良い。

むしろ生まれつきの違いを受け入れたうえで、回答の遅さは必ずしも知識の無さに結びつかない事をもっと着目すべきではないのだろうか。時間制限をもっと緩くすべきである。

勿論レスポンスの速さは「サラリーマン」には必須のものだが、世の中に要るのは「サラリーマン」だけではないし、企業は国がセンター試験などしなくとも勝手に「SPI」や「玉手箱」を若者に課して苦しめる。それはそれで捨て置けばよいではないか。

つまり我々は「知識を詰め込むだけではなく考える力を付けさせるべきだ」(考える力を付けさせるなどどだい無理な事なのだが)と考えるべきところを、誤って「知識を詰め込ませるのは止めて素早く問題を解かせるべきだ」と考えてしまったのでは無いか。早く政策を改めたほうが良いように思われる。

 知識は詰め込むべきである。後はもっと理系中心にすべきである。専門性が無ければ大学を出ても路頭に迷う。非理工系の大学院に入ってしまえば、後はあなた方がこのブログを見たとおりである。

ところでここまで書いてみて私は「子供たちには私の様になってもらわない為にも十五歳までに物理学・数学を修士課程卒業レベルまで(ベクトルや行列などは物理学なしでは意義を理解できないので二つは一体のものとして教える)、医学を医学生二年目相当まで、プログラミングは一人でOSを組めるまでに、それに加えて心理学、電子工作を詰め込み教育すべきである。それ以外の授業は大きく削っても良い。」と考えているのだが、私自身はどれくらいの観念論狂いの狂人なのであろうか。

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