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Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

魔法少女の「瞳の奥」

 昨日、兄弟に連れられて『劇場版 魔法少女まどかマギカ 叛逆の物語』を見に行った感想を書いておこうと思う。

気持ちの悪い理想論の次はまたアニメおたくのぼやきなので本当にもう誰も見る気のしないブログになっているだろうな、と思う。私の心は恥ずかしいという気持ちで一杯である。

延々と四書五経の解釈や文明論についての記事を書く気力があればいいとは思うのだが。或いは進化心理学や数学論か。

しかし私も若者とは言えなくなりつつあり、将来死ぬ時はせめて数少ない仲良い人との思い出を少年時代に縫いぐるみを抱いて寝たように抱いていたいので日記にはこういう事も書いておいても良いと思う。

その為に思い出を書き残しておくとしよう。

さて感想である。所謂”ネタバレ”なので下にでも書こうか。短いものになると思う。

自分なりに曖昧に表現するつもりだが、出来てないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんなもので良いだろうか。

 正直この映画は”何を言いたいのか、何がテーマなのか判然としなかった”。

この映画はそのまま救済を以てして大団円としておけばいいのに悪役を最後の最後で増やすのである。

この作品をテーマ無しとして昨今の日本のアニメ業界を批判することも出来なくはないのだろうが、別に『魔法少女まどかマギカ』にテーマは存在しなくてもいいとも思っている。端的に言って、本作品は蒼樹うめの可愛らしい絵柄と劇団イヌカレーのおぞましくも美しい異界の表現だけで十分に成り立つ。

テレビシリーズは気持ち悪いほどきちんと全員が救済されていた。だからテレビシリーズでは虚淵玄新房昭之はほとんど何もしていない。

新房昭之はシャフトの売りである外連味の効いたキャラクターの動作を指導しているのだろうが、それでもストーリーが”薄っぺらい”以前に”味の薄い”ものになっているという感覚は拭えない。

何だが劇団イヌカレーが描き出す映像だけ「現実界」で、ストーリーやその結末は「想像界」であるようなちぐはぐさがあるのである。

映画はその”大団円”の「後日談」で、在って有る者となり全てを救い出す鹿目まどかのお蔭で一度は人魚の魔女と化してしまった美樹さやかや、魔法少女の頭を食いちぎる魔女だったシャルロットも「魔女」から(”半分”というべきか)魔法少女に戻り、仲間の魔法少女達と行動を共にしている。

がここで彼女たちの中で最も誠実に生きてきたはずの者が全てを裏切って(テレビシリーズでは散々魔法少女たちをほんろうしたキュゥべえすらも!)「魔女」ですらないものへと転生を遂げてしまう。

というのが許されるぎりぎりのプロット暴露だろうか。もう許容範囲から逸脱しているかもしれない。

 こうした訳の分からないアニメ映画を見ると何の為にこんなストーリーにしたのかが酷く気になってくる。私には二つの可能性が思い浮かんだ。

一つは、本作は飽くまでも魔法少女を我々おたくが変質的に消費する為だけに描かれた娯楽作品だと言う事である。

これならばストーリーが滅茶苦茶でも構わない。

何でかを進化心理学的に説明する事が私のような素人には証明できないのだが、我々男性は受肉した魂よりは虚ろな人形の方が好きである(とは言っても恐らく原因は自律的に動く”女性”は他の男の子供を孕む可能性があり、人形へと近づくほど自分の子供しか孕まないようになっていくからだろう)。

勿論現実にそんな事は出来ないからアニメやアダルトゲームで代償的に”女の子”を弄ぶのである。本作はそれに徹してストーリーなど捨てて魔法少女を弄ぶ事だけに専念した、という可能性が一つ。

この場合本作は何らかの意義がある作品というより所謂ポストモダンの荒野に立つモダンなアニメの墓標だと言えるだろうか。

もしそうならば我々は、暑苦しいお説教アニメから解放され、意味無くも美少女を延々と楽しむ事が出来るのだ、と喜ぼう。

 いま一つはプロット執筆者が何らかの喩えを表現するために別に苦し紛れではなく大団円を突き壊している可能性である。どんな喩えかと言うと魔へと転じた魔法少女の中に着ぐるみの様に我々男性が入っているのである。

劇内でその誠実だったはずの魔法少女は突如最愛の人から人格面を引き剥がし我が物とする。

そして彼女はうそぶく、救済にも絶望にも勝るものが有る、それは愛だと。

一つ目の可能性とは別に私が推したいのは、この魔法少女の中には我々男性が、それも最も暗い性的な面を強調されて入っている、という可能性である。

彼女の瞳の奥に、血走った、鏡で見慣れた我々の眼が見えてこないだろうか。

そして朝早くに放送される番組に出てくる、少女達が憧れる清らかな魔法少女から全部とは言わずとも人格面だけ切り離し、弄び、独り占めするのである。

彼女が「魔女」ですらない純なる魔となったのは、我々男の視聴者が彼女を完全に乗っ取ったと言う事ではないのか。

自らが清らかな魔法少女そのものになってしまうと同時に、もう一方では魔法少女を対象として弄ぶのである。

この可能性が本当ならば『魔法少女まどかマギカ』は楽しむだけの作品ではなく、作り手たちの夜の荒海のごとく暗い男性性への込み入った賛美だと言う事になる。

東浩紀の男性批判みたいになってしまった。女性への”批判”もまたいずれするとしよう。個人的には男性性を批判する気は毛頭なく私も賛美する一人なのだが。

ともあれ、こうして私が考察ごっこでどんな事を考えて悦に入ろうとも無粋にも次回作は作られるのだろう。

それにどちらの可能性が本当だったとしても作品の裏に暗いものが潜んでいる可能性は低くない。相手はあの人たちである。

確定している「救い」と言えば私が入れ込んでいる美樹さやかが予想に反して大活躍してくれたことだろうか。

兎角ユニコーンの子孫たち(私も多分その一員だろうが)はヒロインが作中で男性に恋すると怒り出すが、あまり”生臭さ”の無いアニメ美少女と言うのも考え物である。

人はヘルシーなベジタリアン料理のみにて生くるにあらず。

美樹さやかの活躍を見に、是非とも映画館へ足を運ぼう。

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