Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「ポストモダン」は来た!?来ない!?

 今年も残り少なくなり、さて今年の流行、社会現象は何だっただろうかと考えてみるのだが、俄かには頭の中に思い浮かばない。

「じぇじぇじぇ」と業とらしい希望の世界、老いた人に都合の良い若者の物語を映し出す『あまちゃん』だっただろうか。

私のようなおたくにとっては深夜アニメだろうか。が、数年前から”不作”続きである。

こういう”不作”の年がもう何年も続いてきたような気がするのだが、どうなのだろうか。

深夜アニメにしろ、麗しい少女がヒョコヒョコ不自然に動く春画芝居にしろもう衰退期に入ってしまっているのかもしれない。

まだまだ年端も行かない若造が偉そうに書くのだが、色々な場面で時代の移り変わりを感じるようになってきたように思える。

批評家たちが呑気に2000年代の事をゼロ年代と言い直して云々している内に2010年代が来てしまい、90年代のたまごっちやゲーム機、バブル期のディスコ、ゲレンデに行ってスキー、70年代の喫茶店や革命家気取りの様な明確な流行というか時代性が感じられなくなってきた。

外に出て昼間から散歩などしてみると、UR都市機構の運営する集合住宅から枯れ木のような人々が出てきて枯れ葉を掃除している。

親戚の家でテレビを見てみると、取って付けたようなオタク賛美や日本賛美が寒々しく、空しい。

音楽は前衛に走った後に終わることのない昔のリフレインに入ってしまった。

どだい日本の景気自体が終わることのない秋の終わりの様相を呈してしまっている。

私の父などはこういう殺風景な景色を見て、どうしてこうなってしまったのだ、と嘆くのだが、私自身はといえば、捻くれているので世の中の破滅にもなってない緩慢な衰退を侘び寂びだとポジティブに考えてへらへらしている。

親世代の築き上げてきたものが朽ちていくのは楽しい。

けれども何かが起きているのか、何故そうなったのかを確かめておくのは悪い事ではないと思う。

何かが変わってしまったのだろうか、気の所為だろうか。

こういう一見した移り変わりを見ると、近代は終わりポストモダンがやってきたのだ、と人々に吹いて回りたくなってくるのだが、言葉遊びをするな、今ある問題は昔からあって何も変わってはいないのだ、という反論が飛んできそうで、無邪気に口を開くことが出来ず唯こうやってブログで思いつきを吐き出す他無くなる。

 だが「ポストモダン」を叫んでた人達はこうなるずっと前に事態を予測していたのではないかと思う。

その時代の風景や時代性は資本主義的な欲望が作り出すもので、欲望が枯渇してしまえば~年代や今年の流行と言ったフレーズが意味をなさなくなってしまうのではないか。

佐伯啓思著『 「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理』は93年時点においておぼろげながらにそのことを予見していたようである。

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

 

 内容を掻い摘んで話すと香辛料や絹製品のような別文化の文物が欲望されて大航海時代が訪れ、中流階級の生活が欲望されて大量生産時代が訪れ、「自分らしさ」が欲望されてナルシシズムの時代が訪れた。日本が絶対的に有利だったのはナルシシズムの時代である。

 そしてこれからは何も欲望するものが無いのだから人々は資本主義的な欲望から解放されるだろうと締めくくる。

予測はある程度あたっていたのだから優れた著作だと個人的に思うのだけれど、時代は93年、まだまだ牧歌的である。

1995年になって、阪神大震災が起き、オウム真理教がテロを起こし、Windows95がインターネット時代の幕開けを告げ、ついでに言うならば『ドラゴンボール』が連載を終えてジャンプの黄金期は終わりを告げた時から急速に近代的な世界が色褪せていった。

その後少なからぬ人々が欲望の消失によって職を追われたり、生きる目標を失ったりしたのはご存じの通りである。

新しい熱狂はもう無いような気もする。アメリカのタイラー・コーエンは『大停滞』で、我々の生活に今後新しいものが付け加えられる事は無いのだと言っている。数十年は革新などないだろうと。

大停滞

大停滞

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 しかし技術は発展し続ける。それどころか発展の速度は目下加速している。Googleが自動運転を成し遂げたのは2006年だったか。

これが深刻な失業を生み出すのだと、エリク・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーは『機械との競争』で言う。

機械との競争

機械との競争

 

 二つの意見は対立するものではない。BtoBでは機械化による際限ない革新が行われて人類は職を追われるが、同時にBtoCでは欲望する対象が無くなったので進歩が止まり、これによっても人類は職を追われるのである。

 こうしてポストモダンの到来を告知して回って良い気になっていると、スマートフォンは人口に膾炙したし、(私に近しいオタク範囲では『パズドラ』や『モバマス』、『艦これ』などの様な)ソーシャルゲームは流行ってるではないかと聞こえてきそうである。

 それはそうなのだが矢張り何か変わった気がする。そこでさっきの父が言っていた言葉を思い出した。

 

        「今の若い人間は物に対する所有欲が無い。」

 

ゲームを例に苦しい反論をすればソーシャルゲームが全盛を迎えている事、従ってパッケージゲームが衰退している事の基層には所有の欲望への淡白さが有るのではないか。CDも買わない、大掛かりなものは嫌い、バイク・車のような嵩張って高価な物は嫌い、という所有への淡白さとは矢張り欲望の枯渇が関係しているのではないか――

『モバマス』の女の子だってデータじゃないか。儂等が若い頃は新品のパッケージを買って独占欲を満たしたものだが。

ビジネス風に言うと欲望の対象がクラウド化したのではないかと考えている。

あれこれ考えているのだが単に老化が始まって、しかも寒いから訳の分からない事を考えているだけかもしれない。

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