読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

「古代」を語る事は出来るのか

 前回の記事では中国文明を始め色々な地域を結局批判する事に終始してしまった。

見苦しい文章だったかもしれない。

しかし情に基づいて(情ですらなく嘘をついて革命の幇助をして成り上がりたかっただけにも見えるが)世界を見ようとする事、その有害性だけは幾ら指摘してもし足りない事は無いと考えている。

何が起こるかと言えば「見えているもの」を蔑ろにして「見えないもの」を見出すので野放図の政治ゲームになるのである。

「嘘だ、本当はこうなっているんだ」と考えた時点で、当人は自らが諸事実を歪めて見ている可能性を疑った方が良い。

 

 けれども先ずこういう隠された動機を嗅ぎまわると自分自身からもそういう悪しき動機の臭いが出ているのに気付く。

私も含め中華思想に反発するあまり今度は皇国思想という”積極”へと足を踏み入れてはいまいか。これはインターネットでしばしば見かける反正義の人達も気を付けなければならない事である。

しかし、と何度も言うが果たして悪しき動機無しで人は古代を始め過去の事に興味を持ちうるのだろうか。それとも、恐るべき将来の話をして陰鬱になるのではなく、太古の話をして少しでも楽しくなっている時点で人は感情にとらわれてしまっているのだろうか。太古の話はほとんど見えないが故に楽しい。

そもそも古代の事を語ってもいいのだろうか。

近代(私の考えでは日本では明治維新から1995年まで)においては定義からして資料の集まりの芳しくない時代であるはずの古代を嬉嬉として語る人々が多くいた。

取り敢えずこういう人達の政治的な立場の左右を無視して列挙してみるとその共通点が分かる。

 

百済語を現代朝鮮語であると言えば、万葉集百済語で書かれている、と言う事が出来る。

そのような祭器が腐って亡くなったのだと言えば、「口」とは口の象形文字ではなく祝詞箱を意味していると看破する事が出来る。

人の言葉は必ず大語族に分ける事が出来るので、アフリカの特に分類できない言葉はナイル・サハラ語族である。アメリカではアメリンド語族が再構出来る。

 

遺伝学などの科学が文系の領分へと侵攻してこなかった内はこういうアスペルガー的なスター達、文系自閉者が伸び伸びと珍説を述べ、彼らの周りには藤壺の如く政治的な意図を持った健常者達が集まってきた。

それで確たる根拠を以て言える事が無いのに白けて仕事を受け継ぐ人が居なくなる。図書館で検索をかけても近年の古代史の本は乏しい。

 

 注意しておきたいのは権威側の人も大して根拠のある事は言っていないという事である(定説に従うにしろ殷代の中国人の口はこれほどまでにロボットの様であったのか)

甲骨文字が既に抽象化されて文字体系として完成された状態で見つかるのは、それ以前は腐りやすい媒体に文字を書いていたからからだと平気で言う

根拠のない事を言い出したら可能の限りに苛めてきた珍説家と一緒ではないか。

それならば”重い物を持つのを嫌ったアンドロノヴォ文化の遊牧民達は実はヒエログリフから派生した何らかの文字を(職業上すぐに手に入る)動物の革に書いていた。動物の革は腐りやすいので残念ながら現存はしていないのだが、隣国の「文字を書く」という風習を見た殷代の中国人は宗教的儀式の権威付けとして文字を書き始めた。”というのはどうだろう。

現に中国語の蜜という単語はトカラ語から入っているなど、上古から中国語には少なからぬ外来語があるようなのである。奇しくも馬車の伝来と最古の甲骨文字の出現時期は時を同じくしているわけではないか。

――勿論きちんとした根拠があるわけではなく茶化しているだけである。科学者でない私に何が出来るというのだろう。

そうやってそうこう想像力を逞しくしている内に、ほら、科学は人間の領分へと着実に領土を広げてきたではないか。

我々文系には(人の意図が入り込まない)物質から始められないので手元に前提の要らない証拠がない。今や歴史を知りたい人々の耳は(恐らく都落ちした)理学者の方にしか向かない。

 

 陰鬱な気分を満喫していても仕方がない。物々しい設備を使いこなせない文系なりに歴史を科学的に語る方法でもないか考えてみよう。

歴史は科学ではないと揶揄される。また一度しか起きていない事を扱うので科学的には語りえないとも開き直られる。

ここで科学の定義をちょっと考えてみよう。素朴に考えるならば(ポパー氏の剽窃だと思うのだが)科学の本質とは”誰にでも正しいと確認出来る事”と”何かを予想出来る事”である。

つまり「科学的事実」とは”(物理化学生物を習得した人ならば)誰でも正しいと確認できる事実”である。また「科学的理論」とは「何かを予想するのに成功した理論」である。

ここで事実の確認も理論を前提としている事や予想が当たったのが偶々出会った可能性などを指摘すればホーリズムなどのお話をできるのだろうが今は(唯でさえ足りない)知識が足りないし、第一眠くて瞼が重い。また今度何か書き残してみようとは思う。

これを応用できないだろうか。即ち、「歴史学的事実とは誰にでも確認できる事実である」。また「歴史学的理論とは何かを予想するのに成功した理論である」。

過去に起きた出来事で予想とは何なのだと、言われるかもしれないが、詭弁を言いたいのではない。理論から発見が予想される事実が将来実際に発見されると言う事が科学的歴史学理論の条件だと言いたいのである。

例えばソシュールの喉音理論は発表当時は珍説と見られたが後にヒッタイト語によってその理論の正しさが証明された。つまり喉音理論は「喉音の形跡がよりはっきり残った別の言語が見つかるだろう」という予想を的中させたのである。

印欧語族全体の理論もまた科学的と言える。比較言語学によって示された「印欧語族が移動した他の証拠が見つかるであろう」という予想はY染色体ハプログループR1a,R1bの分布によって見事証明された(ここからまたFather Tongue仮説というのが出てくる)。

もしかすると照葉樹林文化論も科学的と言えるかもしれない。先の記事で言ったように稲の多様性の分布、O1及びO2のY染色体ハプログループの分布は照葉樹林文化圏と合致しているように思われる。

 

 柄にもなく明るい希望を滔々と語ってしまったが、もう誰かが言った事であるのだろうとは思う。でももしこのまま文系の博士を目指すのなら、歴史を、特に興味のある無文字古代をどのように語り得るかと言う事は私にとって本気で考えていかねばならない問題ではある。

もっとも最近は自分は学者を目指す器ではないのかな、と考えているので一年後はもう上手く行くわけでもないアルバイトに専念しているのかもしれない。

広告を非表示にする