Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

宮崎駿監督の挫折

ギスギスした食事風景を和らげるために、色々なビデオを借りてくるようになり久しい。

その中でもスタジオジブリ、実質的には宮崎駿のアニメーション映画というのは過去の思い出も有り、苦酸っぱいような視聴後感を持つ。

時間が足りていないのに見入ってしまうので、焦ってビデオを食事中に流すのは差し控えている。

そのような訳で最新作の『風立ちぬ』は未視聴のままである。

それで映画を見終わった後の第一印象はと言うと、何とも古臭い。

モダンのカビ臭さと言っても良いかも知れない。

兎に角、押井守監督作品もそうなのだがお説教が前面に出すぎているのである。

また押井作品に関して言えばモチーフが聖書から取られていたり、俗物臭さも目立つ。

が同時に懐かしくて仕方がない気持にもなる。

昔はアニメーション映画のみならず、テレビアニメや漫画本でさえ(だからこそ)お説教に満ち溢れていたのである。

そのようなお説教は高校生以降うっとおしく感じていたのだが、いざ諸々の理想の時代が過ぎ去ってみて、仲間賛美に終始する週間少年ジャンプ系の漫画・アニメ、絵に描いたような絵に描いた美少女が横溢跋扈する深夜アニメばかりの現在から振り返ってみると、篭められた理想がないと物足りない気もする。

 

宮崎駿監督というのは少年時代彼を崇拝していた自分から言わせて貰うと、非常に理想の押し付けがましい、お説教じみていると同時に、理想から突っ走って場外へ落ちていく人だという印象がある。

マンガ版の『風の谷のナウシカ』が最たるものであった。

ではその後はどうか。

先ず『千と千尋の神隠し』でエコロジー的なイデオロギーが脇へ追いやられた。

それで『崖の上のポニョ』で遂にイデオロジカルなセリフがなくなってしまった。

スクリーンの後ろでは監督が小言を言っているのかもしれない。

けれども表立ってお説教をしなくなったというのは大きな方針転換であるように思う。

時系列順の印象を述べていくならば、年を追う毎に宮崎監督は理想から遠ざかっている気がする。

 

思うに宮崎監督は自分の理想について真面目に考えてしまった所為で、理想というものが大体において矛盾に満ち、実現不能であったり、そもそも人々に本気にされなかったり、時として破滅をもたらす物であると言う結論に至ったのではないかと思う。

穿ち過ぎだろうか。

漫画版の『風の谷のナウシカ』では人間と自然の共存がテーマであったはずが、最後には環境問題を問題視するその姿勢そのものが徹頭徹尾人間のエゴでしかない事が明るみに引きずり出され、ある種自由放任礼賛的な結論をナウシカ達が迎えてエンディングを迎える。

心ある評論家が言うように、ここで宮崎駿の思想は完成を迎えていた(そしてそれ故それ以降の作品は蛇足であった)という意見は以前は私もそう思っていたし、ある程度妥当なものであろう。

けれども宮崎監督は作品を作り続けた。

スタジオジブリの面々を食べさせていく為、というのは大きな理由のひとつであったろう。

 

でもここに私の憶測を付け足してみたいと思う。やはり監督は物足りなかったのではないか。

漫画版ナウシカが終わった後宮崎監督はスタジオジブリ最盛期を飾る『もののけ姫』を発表した。

一見漫画版ナウシカを映画用に焼きなおしただけのようにも見えるけれども、先日見直してみて少し評価を変えた。

登場勢力が後期ナウシカから増えているのである。

現実の自然である。

これが「言葉すら話せなくなったか」と嘯いた犬神モロの一族や巨大なイノシシ達だけが登場人物ならば本当に漫画版ナウシカと同じと結論付けていいと思う。

しかし『もののけ姫』にはどこまでも異形でしかない「シシ神」が登場する。

「シシ神」は言葉を一言も話さない。

おまけに人にも森の生き物にも加担しようとしない。仕舞いには瀕死のオッコトヌシの命を奪う始末である。

犬神たちや猪たちと違って「シシ神」は飽くまで意思を持たない自然そのものに過ぎない(私もはっきり意識しだしたのは2ちゃんねるのログを見てみてからだが)。

http://viper.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1399002584/

そして最後には石火矢で首を狩られゲル状の濁流となって山や人を飲み込む。

これだってシシ神の怒りの意思表示と言うよりは単なる山崩れのメタファーだろう。飽くまでシシ神は意思を持たない自然そのものである。

「生きろ」と言うのは、山崩れから奇跡的に生き残った初代近世人アシタカ達の勝手な自然解釈ではないのか。

それで何故漫画版ナウシカにわざわざ本物の自然を付けて映画化したのかといえば、それは宮崎監督が自然からは何の道徳律も導き出せないと言う境地に漫画版ナウシカのラストを執筆していた時に既に達していて、それを強調する為に無言の自然を導入したのではないか。

もののけ姫を完成させた時点で宮崎監督のエコロジー観は完成されていたのではないかと思う。

 

それで既にやりたいことを全てやり終えたならば何故『千と千尋の神隠し』を制作したか。

もののけ姫』との断絶があったのではないだろう。

監督は一貫して自然と近い概念を崇拝している。

「生命力」である。

手塚治虫荒木飛呂彦もそうだが、ある世代以前の人達は人間性と生命力と自然を二つイコールで結びつけて崇拝する傾向があるように思える。

自然に生命力を見出すのに失敗した宮崎監督は今度は現代の若者の生命力の無さに目を付け、若者が生命力を取り戻す物語を通じて生命力の賛美を行おうとしたはずである。

なので『千と千尋の神隠し』にもお説教がちりばめられている。

監督は作品を通じて今度は若者に生命力への回帰を訴えることで生命力賛美をしたのである。

 

ただそれも黄金期を過ぎ、インターネットによるクリエイターと世論との直接的対峙が始まるにつれ、陳腐化していった。

ハウルの動く城』は失敗作ではないが、自作の二番煎じなのである。

それで自らの老いも有って、宮崎監督はポニョや風立ちぬのような自閉的な作品が目立っている。

 

以上が宮崎駿監督の作品に関する私のざっとの感想だ。

けれども本当の事が気になるのなら、本人に聞けばいいのかもしれない。

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