Bermerkids' diary

文筆家気取りで他愛もない事を書くブログです。稚拙な主張ではありますが広い心で読んでいただければ幸いです。

理系の行き止まり

私が常々思っているのは、文系学問、特にフィールドワーク系の学問や法学系の学問には芳しい未来は無いのではないか、と言うことである。
何となればこれらの学問は自分たちの頭の中にある義と徳を押し付けるだけで何も発見していないのだから。
「途上国の人たちは強かである」以外に前居た所で先生達が教えてくれたのはそれだけである。
何とか「科学の最低条件」たる、研究対象の未来を予測する方法は無いものか。
それで理系学問の方を、指を咥えて見てみると「こっちにもそんなものは無いぞ、しっし」と父が言う。
この人は私を不満なく文系学問に留める為にこんな事を言うのではないかと穿っていたが、どうもそのこと自体は本当らしい。
デイヴィッド・オレル博士の『明日をどこまで計算できるか 「予測する科学」の歴史と可能性』は邦訳もそうだが原題(APPOLO’S ARROW: the Science of Prediction and the Future of Everything)ともうって変わって予測科学に対する悲観論に満ちている。

 

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

 

 


本書の主張するところによると、どれだけ観測技術が進歩しても物理法則と初期条件だけから未来の予測をすることは、体積2倍問題が定規とコンパスだけでは解き得なかった様に不可能である。
何故か。完全な予測が出来るはずだと我々市井が思うのにはカオスと複雑系の混同もあるようだ。

カオス系(システム)は、複雑系と同じではない。前者では、予測には正確な初期条件が必要になる。後者では、予測は不可能である。(p.380)

そして天気や経済などの系にカオス的な性質が有っても複雑系的な性質が存在しないと考えるのは、それらの専門家たちの単なる希望的観測に過ぎないと一刀両断にする。
実際には、“単純系”よりも複雑系のほうがずっと多い。数その物も有理数より無理数の方が多いではないか、と作者は言う。
著者の“消極”部分の論を読む限り、科学という営為の成果は科学技術を生んだ事だけという事になりそうである。
定量分析に憧れている身としては、参ったなあ、の一言に尽きるというものである。
尤も(書かれてはいないが)人類の予測能力を大きく凌駕する人工知能や宇宙人も恐らく存在し得ないということなのでそれでいいのかもしれない。
ところが“積極”部分の論を読むと、二酸化炭素が地球を温暖化させているのは疑いようが無い、市場は不完全である(不完全であるのはその通りなのだが、それは所謂、自由市場経済と言うのは最悪の制度である。そのほかの全ての経済制度を除けば、という話ではないのだろうか)、生命は素晴らしい、と何とも80年代的な生命賛美・環境保護主義、反市場主義的な事が書いてある。
それでこれらの問題への読者のアンガジュマンを急かすのである。いささか仰け反る本ではある。
数学的モデルで未来が予測できないから人間、知恵持つ生命、たる政治家や運動家が未来を正しく予測しうると言うのは短絡的過ぎるだろう。
せめて、それが成功するのは就任した政治家や頭角を現した運動家が奇跡的に賢く且つ善人である場合だけであるが、と一言書いておくべきではなかったのか。
要するにこの人は左派・リベラルの人、言い換えるならば理想家なのだが、それにしても右派の小林よしのりやポール・コリアーにしても積極に出て成功するのは失敗しているきらいが有るので、もう皆積極へは出て行かない方が良いのではないかと考えざるを得ないのである。
では我々は取り敢えずで良いから何に基づいて物事を予測すれば良いのか、という問いに対しては国内でより良い意見が有って、韓国・朝鮮研究家である古田博司教授の『ヨーロッパ思想を読み解く――何が近代科学を生んだか』に、経験に無い物事についての人間の判断力(要するに予測能力)が「直観」と「超越」に分けて論ぜられている。

 

 
迂遠な書き方を避けない先生なので私なりの解釈を書いておくと、「直観」とは要するに“思いつき”の事である。
或いは“実感の湧く事”、“見たままの有様”だと言っても良いかもしれない。
“思いつき”とは五感と記憶の無意識的な統合なので、それは“実感”、“見たまま”でもある。
古田先生の言葉遣いに従えば、フェミニズム脱構築などの8、90年代に日本に輸入され隆盛を誇った諸々の思想は「直観」を欠いたものであると言えるだろう。
フェミニズムは「男女は生物学的に同じである」という“実感”に基づかないテーゼに基づいた思想だったし、脱構築は “実感”など無くとも自由に批評やスタイルを練り上げられるとする思想であった(同じ爛熟期のフランス現代思想内においてもどこまでも躁的なデリダと、非科学的であっても「現実界」を見ようとしたラカンの違いは大きいだろうし、デリダヒルベルトの類似性についても検証したほうが良いかもしれない)。
しかし残念ながら実感なしでは有益なものも有意義なものも生まれなかった。「直観」、“実感”とは公理である。滅茶苦茶な公理からは当然不便な体系が生まれる。だから数学的モデルにしても、「こちら側」で好き勝手にモデリング出来る訳が無くて、「直観」から始めるより他無いのである。
「直観」を数学等でモデリングすることで初めて実感の伴わない領域への「超越」が可能となる。
これが、著者が未だ数学を捨てざる理由であろう。この人は数学が不必要だとは決して言わない。
数学は万能ではないが、どうしても要る。
けれども「超越」に関しては、私は疑念を抱いていて、「超越」は半ば禁じ手ではないかと考えている。
良い「超越」と悪い「超越」の区別が付かないのだ。
科研費を出す側にとってはギャンブルになる。
著者のデイヴィッド・オレル博士にしたって「超越」のし過ぎだといえる。
前に呼んだ本との意外な繋がりも有った楽しい読書だったのだが、著者の、そして私自身が取るべき「超越」への姿勢については疑問が深まるばかりである。

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