Bermerkids' diary

あるアスペから見た世界

「死ねば何もなくなる」のか?

「死ねば何もなくなる」そうであってほしいものだ。

しかし「死ねば何もなくなる」というのは、一つの死後の世界ではないのか。

なぜならそこでは依然、死後を五感で感じ取っている私自身が想定されているからである。

永遠に続く真黒な視界、他の四つの感覚からは忌まわしい感覚は入ってこない――これは消滅というより涅槃ではないのか?

こうした死後の状態の想定には私の意識、心自体の存続は想定されているように思われる。

「死ねば何もなくなる」と私が思うとき、私は死ではなく涅槃を期待してはいないか?

自殺すれば涅槃が訪れるという想定は現代人らしい唯物論ではなく一つの忌まわしい魔術ではないのか?

死が消滅であるとするならば、まさしく「死ねば楽になる」はずの私が消滅しているのでなくては死ではないのである。

けれども私から見えてない世界——五感も記憶も存在しない世界とはどういう世界でありうるだろうか?

死が消滅であるとするならば、死は洞窟の行き止まりの様に私の前に立ちふさがるだけで、行き止まりの先など論じえないのではないか?

或いは自殺願望を持っている人々は自殺すれば漆黒の永遠ではない別の状態が訪れると想像しているのだろうか?

苦しんでまで生きる意味

自分のやってしまったことのトラウマから逃れられない。

私には苦しんでまで生きる理由は無いのだろうか?

今現在一時より気分はましである。

けれども孤独と他人の怒号・叱責に対する恐怖はいつまで経っても消えない。

やっぱり死んだほうがいいのではないか?

楽になれるのではないか?

しかし「楽になる」とは?自分はその時居もしないのに?

それでも今生きているのは、どうしても母親を悲しませたくないからだ。

父に小馬鹿にされ罵倒されてばかりだった母。

自分が頑張らねば母こそ見返り無く人生を過ごしているということになってしまう。

しかしそれでは私は自分のために生きれないのではないのか?

或いはすべての「生きる理由」は「死ぬのが怖いから」という原因に集約されるしかないのだろうか?

けれども、それにしても今の私にとって自分の母は命綱みたいなものなのである。

 

何のために生きればいいのだろう?

何のために生きればいいのだろう?

何の才能もなかった。

何の趣味もない。

酒もたばこも嫌い。

絵に描いた女も飽きが来ているし、ゲームも好きじゃない。

生きるためには何か目標が必要なのだろうか?

生きるためには何か楽しみが必要なのだろうか?

勿論そうだ。

楽しいひと時、充実した仕事が無ければ痛みは直接心にやってくる。

明日もアルバイトだ、それだけなのに。

怒られる恐怖、誰の役にも立てない恐怖がもうこっちまで来ている。

「周りにこれ以上迷惑をかけないために」というのは理由になるか?

「死ねば楽になれる」という言葉は、死を消滅とするならばだが、自分が死んでいるとはどういうことか想像できない以上、死んでいる自分から見た世界が想像できない以上、意味をなさないと思われる。

では「周りにこれ以上迷惑をかけないために」というのは死の理由になるのか?

迷惑をかけていたとして、冷静に考えればすべきことは賠償のための努力だろう。

でももしかしたら自分が死んだ方が世のため人のためになるケースもあるのかもしれない。

それは残念ながら自分が辿り着いた状況によるのかもしれない。

死が全く正当化できないとしたら逆に寿命による死もまた正当化できないのではないか?——そんな風に不安になってくる。

永遠に生きるための努力もまた(実現できたところで)不毛ではないのか?

死刑はどうだろう?認知的不協和を避けるために欧米諸国は廃止しているようだが、テロに対する制裁はそれなりに苛烈である。

社会はどう言いつくろったところである時に死ぬべき人間というのを定めざるを得ないのではないか?

いや思考がずれているのだろう。刑法に触れない限り「迷惑」というのはそれほどではないはずである。

しかし、それにしてもひょっとして哲学者たちの言う哲学とは宗教無しに生存の続行を正当化しようとする試みではないのだろうか?

私は普通の仏道を信じるべきではないのだろうか?

しかしそこでまた捻くれた自分に連れ戻されるのである。

私は――今の私は理屈で死にたい、いややっぱり生きたい、のではなく誰かに声をかけてほしいだけではないのだろうか?

死にたくなった時にはどう考えたらいいのだろう?

 久方ぶりの更新をしてみるに、正直に書いておくと人生が全く上手く行っておらず、死にたくなってはいて、恥の上塗りを書く散らすことになる。

私は所謂「ネトウヨ」なのでこの日本社会に大きな瑕疵があるとは考えない。

左派の扱き下ろしは間違っており、日本社会には何でもそろっている。

しかし私の才能だけは無い。

日本社会は世界から必要とされている。

しかし私は必要とされていない。

唯一の慰みは死んでも得にはならないことだ。

ウィトゲンシュタイン生の哲学から導き出すに、死んで楽になれるかどうかは「語りえない」。

私は私が現に死んでいる状態がどういうものかを想像しえないし、死ぬことが損か得かを語ることもできない。

なので、思考をそこで止めざるを得ないのである。

「死ねば楽になれる」ということは命題ですらないのではないか?

ならば取りあえず生きることに専念すればよいのではないか?

理系の行き止まり

私が常々思っているのは、文系学問、特にフィールドワーク系の学問や法学系の学問には芳しい未来は無いのではないか、と言うことである。
何となればこれらの学問は自分たちの頭の中にある義と徳を押し付けるだけで何も発見していないのだから。
「途上国の人たちは強かである」以外に前居た所で先生達が教えてくれたのはそれだけである。
何とか「科学の最低条件」たる、研究対象の未来を予測する方法は無いものか。
それで理系学問の方を、指を咥えて見てみると「こっちにもそんなものは無いぞ、しっし」と父が言う。
この人は私を不満なく文系学問に留める為にこんな事を言うのではないかと穿っていたが、どうもそのこと自体は本当らしい。
デイヴィッド・オレル博士の『明日をどこまで計算できるか 「予測する科学」の歴史と可能性』は邦訳もそうだが原題(APPOLO’S ARROW: the Science of Prediction and the Future of Everything)ともうって変わって予測科学に対する悲観論に満ちている。

 

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

明日をどこまで計算できるか?――「予測する科学」の歴史と可能性

 

 


本書の主張するところによると、どれだけ観測技術が進歩しても物理法則と初期条件だけから未来の予測をすることは、体積2倍問題が定規とコンパスだけでは解き得なかった様に不可能である。
何故か。完全な予測が出来るはずだと我々市井が思うのにはカオスと複雑系の混同もあるようだ。

カオス系(システム)は、複雑系と同じではない。前者では、予測には正確な初期条件が必要になる。後者では、予測は不可能である。(p.380)

そして天気や経済などの系にカオス的な性質が有っても複雑系的な性質が存在しないと考えるのは、それらの専門家たちの単なる希望的観測に過ぎないと一刀両断にする。
実際には、“単純系”よりも複雑系のほうがずっと多い。数その物も有理数より無理数の方が多いではないか、と作者は言う。
著者の“消極”部分の論を読む限り、科学という営為の成果は科学技術を生んだ事だけという事になりそうである。
定量分析に憧れている身としては、参ったなあ、の一言に尽きるというものである。
尤も(書かれてはいないが)人類の予測能力を大きく凌駕する人工知能や宇宙人も恐らく存在し得ないということなのでそれでいいのかもしれない。
ところが“積極”部分の論を読むと、二酸化炭素が地球を温暖化させているのは疑いようが無い、市場は不完全である(不完全であるのはその通りなのだが、それは所謂、自由市場経済と言うのは最悪の制度である。そのほかの全ての経済制度を除けば、という話ではないのだろうか)、生命は素晴らしい、と何とも80年代的な生命賛美・環境保護主義、反市場主義的な事が書いてある。
それでこれらの問題への読者のアンガジュマンを急かすのである。いささか仰け反る本ではある。
数学的モデルで未来が予測できないから人間、知恵持つ生命、たる政治家や運動家が未来を正しく予測しうると言うのは短絡的過ぎるだろう。
せめて、それが成功するのは就任した政治家や頭角を現した運動家が奇跡的に賢く且つ善人である場合だけであるが、と一言書いておくべきではなかったのか。
要するにこの人は左派・リベラルの人、言い換えるならば理想家なのだが、それにしても右派の小林よしのりやポール・コリアーにしても積極に出て成功するのは失敗しているきらいが有るので、もう皆積極へは出て行かない方が良いのではないかと考えざるを得ないのである。
では我々は取り敢えずで良いから何に基づいて物事を予測すれば良いのか、という問いに対しては国内でより良い意見が有って、韓国・朝鮮研究家である古田博司教授の『ヨーロッパ思想を読み解く――何が近代科学を生んだか』に、経験に無い物事についての人間の判断力(要するに予測能力)が「直観」と「超越」に分けて論ぜられている。

 

 
迂遠な書き方を避けない先生なので私なりの解釈を書いておくと、「直観」とは要するに“思いつき”の事である。
或いは“実感の湧く事”、“見たままの有様”だと言っても良いかもしれない。
“思いつき”とは五感と記憶の無意識的な統合なので、それは“実感”、“見たまま”でもある。
古田先生の言葉遣いに従えば、フェミニズム脱構築などの8、90年代に日本に輸入され隆盛を誇った諸々の思想は「直観」を欠いたものであると言えるだろう。
フェミニズムは「男女は生物学的に同じである」という“実感”に基づかないテーゼに基づいた思想だったし、脱構築は “実感”など無くとも自由に批評やスタイルを練り上げられるとする思想であった(同じ爛熟期のフランス現代思想内においてもどこまでも躁的なデリダと、非科学的であっても「現実界」を見ようとしたラカンの違いは大きいだろうし、デリダヒルベルトの類似性についても検証したほうが良いかもしれない)。
しかし残念ながら実感なしでは有益なものも有意義なものも生まれなかった。「直観」、“実感”とは公理である。滅茶苦茶な公理からは当然不便な体系が生まれる。だから数学的モデルにしても、「こちら側」で好き勝手にモデリング出来る訳が無くて、「直観」から始めるより他無いのである。
「直観」を数学等でモデリングすることで初めて実感の伴わない領域への「超越」が可能となる。
これが、著者が未だ数学を捨てざる理由であろう。この人は数学が不必要だとは決して言わない。
数学は万能ではないが、どうしても要る。
けれども「超越」に関しては、私は疑念を抱いていて、「超越」は半ば禁じ手ではないかと考えている。
良い「超越」と悪い「超越」の区別が付かないのだ。
科研費を出す側にとってはギャンブルになる。
著者のデイヴィッド・オレル博士にしたって「超越」のし過ぎだといえる。
前に呼んだ本との意外な繋がりも有った楽しい読書だったのだが、著者の、そして私自身が取るべき「超越」への姿勢については疑問が深まるばかりである。

人生経験の無い人

人生経験の無い人というとどのような人を言うだろう。

上司や仲間の出す無理難題をこなしてきた事の無い人の事を言う、という意見は至極全うである。けれどちょっと暑苦しい。もう少し涼やかに言えはしないものか。

人生経験の無い私なりに考えてみよう。

此処はてなダイアリーtwitterなどを見てふと思うのは、「人生経験が無い」というのは「身内に嫌われた経験が無い」という言い方も出来るのではないかという事である。

例えば、文字通り家族という身内に裏切られ嫌われ疎んじまれた事の無い人というのは、人生経験が無いと言える、と思う。

母親、父親或いはその両方から苛められ、相矛盾する命令をされグロッキーになった事の有る人々は幸いである。そうでない人々に比べ人生経験があるのだから。

上司、同僚、自分が属する思想集団から攻撃され陥れられた事の有る人は幸いである。そうでない人々に比べ人生経験があるのだから。

味方から弾丸を撃ち込まれた事の有る兵隊は幸いである――

さもないと人はどうしても身内だけは信用してしまう、そして遂には身内だけを信じ切るようになって、互いに腐らせるようになるからである。

そして想定外の事態、時代の変化、有害な他者に対応できなくなってしまう。

「かえるの卵のように寒天の中にくるまっている」のは自閉的な個人だけではない。健常者も徒党を組んでしている。

健常者が自閉的な人間のように一人では「かえるの卵のように寒天の中にくるま」らないのは、自分の属する集団皆でそれをして外には出たがらないからである。

冷戦にくるまっていた日本の大企業はポストモダンの到来に対応できたろうか。

冷戦にくるまっていた日本の左翼は冷戦の終わりに対応できたろうか。

不注意多動的な人間は自分の入れる「寒天」質を持たないだろう。それはアドバンテージである。

但しもし不注意他動的でありながら(珍しくも)身内に叱られ続けた、裏切られ続けた経験が無いと傍迷惑でありながら見合う物の無い能天気な人となってしまう。

心に信用を抱いてはならない。それは心を腐らせ、自分や自集団と言う寒天質から一歩も出ることを出来なくするものである。

ただ人生経験は何不自由なく育って中年まできてしまった人間が改めて積む事も出来る類のものなのではないかという気もする。

私にも私なりの人生経験があるのだと声高に言うはずが弱気になってしまった。人生経験を積まねばと思う。