Bermerkids' diary

あるアスペから見た世界

男は女に何を求めるか

最近性差をめぐるちょっとした論争がインターネット界隈で盛んに行われているようである。

matome.naver.jp

 

上のリンクは漠然と性差に纏わる議論と言うよりも、ピンポイントで「男は女に究極的には何を求めているのか」という議題に関する議題であるように思える。

偽善者たちは言う

「恋愛は男にとっても充実したものである」

「男も淋しいのだ、人のぬくもりが欲しい」

勿論これらの主張をば女性諸君は鼻で笑ってくれてかまわない。

私も信じようとしたことが有ったが、欺瞞である事を悟るようになっていった。

我々はあなた方よりもずっと嘘吐きで、残虐で、手段を選ばない。

これは欺瞞だろう。テストステロンは分泌量が増える程、孤独を好むようになる。

しかしこの主張は嘘ではまったく無いにしろ些か不正確である。男は当然性行為目的に女を歓待するのであるが、何故性行為するのかが書かれていない。

性行為そのものは欲望を満たす為の謂わば”有効な手段”であって目的では無いのである。

目的を説明するために漫画本のキャラクターの台詞を持ってくるのはふざけているのかと言われそうだけれども、我々男性が女性に求めるものを端的に表している台詞があるので引用しておく。

 

あるのはシンプルな、たった一つの思想だけだ…たった一つ!
「勝利して支配する」!
それだけよ…それだけが満足感よ!
過程や…!方法なぞ…!
どうでもよいのだァーッ!!

 

この台詞がラブコメディのものであったなら「その通り!」と男達は拍手喝采するだろう。

我々が欲しているのは性的競争において『勝利して』女性を『支配する』事だけである。

ただ『それだけが満足感』なのである。

だからこの台詞を言ったキャラクターは性的な意匠に満ち溢れている。

女性は我々の事を全員このキャラクターの劣化版だと考えればいいのである。

またそれ故、男と言うものは「性行為させてあげる」という心理には何ら興奮しない事は覚えておくべきである。

「この人とだけは本能的に性行為したくて我慢できない」「嫌で仕方がないが性行為しないと怖い」ならば男は興奮するだろう。

今の世は怖いと思う。どんな本音でも筒抜けなのだから。

それでも女性にとって、自分の事を”領土”と考えて(暑苦しいが)手放そうとしない人間と、

自分の事を”略奪品”と考えて(後腐れは無いが)直ぐに見捨てる人間は区別する必要があるであろう。

この見極めはどうすれば良いかと言うと多分、イデオロギーに染まらず自分を疑いつつ自分自身の直観で男達を品定め、すれば良いと私は考えている。

勿論”品定め”と言う位女性が男性に求めるものも”自動現金引き出し機”以上のものではないので、お互い様である。

何とまあ男女の間には暗きものしかないことか。

招春

仕事をするでもなく

学問をするでもなく

友情恋愛を愉しむでもなく

自らを嘆く―――

苦しみ漫然と生きてきたが、もうその様な事を続けたくは無い。

人生の失敗は周りの人間の所為だとは考えてきたが、もう弱音は吐くまい。

強いて強く生きようというのではない。

只自分から生きたい。

人の全ては遺伝と環境で決まる、その事に依存は無い。

意思を過大評価してはならない。

しかし過去の自らの全てが遺伝と環境に還元可能だとしても、これから自分がどうするかは別の事だ

意思も物理法則に還元可能ならば、物理法則の一部も確かに意思なのだ。

さあ、私は成り損ないなら成り損ないらしく全て遺伝と環境の所為にしよう。

ただし誰にも言わない「こうすればよかった」と言う後悔は自らのものとしよう。

過去については私にはどうしようもなかったと言いながら、精一杯頑張って私は未来に来て貰おう。

思い出すは暗き自らの変遷

心抱くは意思の源泉

この春こそ春を訪れさせん。

宮崎駿監督の挫折

ギスギスした食事風景を和らげるために、色々なビデオを借りてくるようになり久しい。

その中でもスタジオジブリ、実質的には宮崎駿のアニメーション映画というのは過去の思い出も有り、苦酸っぱいような視聴後感を持つ。

時間が足りていないのに見入ってしまうので、焦ってビデオを食事中に流すのは差し控えている。

そのような訳で最新作の『風立ちぬ』は未視聴のままである。

それで映画を見終わった後の第一印象はと言うと、何とも古臭い。

モダンのカビ臭さと言っても良いかも知れない。

兎に角、押井守監督作品もそうなのだがお説教が前面に出すぎているのである。

また押井作品に関して言えばモチーフが聖書から取られていたり、俗物臭さも目立つ。

が同時に懐かしくて仕方がない気持にもなる。

昔はアニメーション映画のみならず、テレビアニメや漫画本でさえ(だからこそ)お説教に満ち溢れていたのである。

そのようなお説教は高校生以降うっとおしく感じていたのだが、いざ諸々の理想の時代が過ぎ去ってみて、仲間賛美に終始する週間少年ジャンプ系の漫画・アニメ、絵に描いたような絵に描いた美少女が横溢跋扈する深夜アニメばかりの現在から振り返ってみると、篭められた理想がないと物足りない気もする。

 

宮崎駿監督というのは少年時代彼を崇拝していた自分から言わせて貰うと、非常に理想の押し付けがましい、お説教じみていると同時に、理想から突っ走って場外へ落ちていく人だという印象がある。

マンガ版の『風の谷のナウシカ』が最たるものであった。

ではその後はどうか。

先ず『千と千尋の神隠し』でエコロジー的なイデオロギーが脇へ追いやられた。

それで『崖の上のポニョ』で遂にイデオロジカルなセリフがなくなってしまった。

スクリーンの後ろでは監督が小言を言っているのかもしれない。

けれども表立ってお説教をしなくなったというのは大きな方針転換であるように思う。

時系列順の印象を述べていくならば、年を追う毎に宮崎監督は理想から遠ざかっている気がする。

 

思うに宮崎監督は自分の理想について真面目に考えてしまった所為で、理想というものが大体において矛盾に満ち、実現不能であったり、そもそも人々に本気にされなかったり、時として破滅をもたらす物であると言う結論に至ったのではないかと思う。

穿ち過ぎだろうか。

漫画版の『風の谷のナウシカ』では人間と自然の共存がテーマであったはずが、最後には環境問題を問題視するその姿勢そのものが徹頭徹尾人間のエゴでしかない事が明るみに引きずり出され、ある種自由放任礼賛的な結論をナウシカ達が迎えてエンディングを迎える。

心ある評論家が言うように、ここで宮崎駿の思想は完成を迎えていた(そしてそれ故それ以降の作品は蛇足であった)という意見は以前は私もそう思っていたし、ある程度妥当なものであろう。

けれども宮崎監督は作品を作り続けた。

スタジオジブリの面々を食べさせていく為、というのは大きな理由のひとつであったろう。

 

でもここに私の憶測を付け足してみたいと思う。やはり監督は物足りなかったのではないか。

漫画版ナウシカが終わった後宮崎監督はスタジオジブリ最盛期を飾る『もののけ姫』を発表した。

一見漫画版ナウシカを映画用に焼きなおしただけのようにも見えるけれども、先日見直してみて少し評価を変えた。

登場勢力が後期ナウシカから増えているのである。

現実の自然である。

これが「言葉すら話せなくなったか」と嘯いた犬神モロの一族や巨大なイノシシ達だけが登場人物ならば本当に漫画版ナウシカと同じと結論付けていいと思う。

しかし『もののけ姫』にはどこまでも異形でしかない「シシ神」が登場する。

「シシ神」は言葉を一言も話さない。

おまけに人にも森の生き物にも加担しようとしない。仕舞いには瀕死のオッコトヌシの命を奪う始末である。

犬神たちや猪たちと違って「シシ神」は飽くまで意思を持たない自然そのものに過ぎない(私もはっきり意識しだしたのは2ちゃんねるのログを見てみてからだが)。

http://viper.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1399002584/

そして最後には石火矢で首を狩られゲル状の濁流となって山や人を飲み込む。

これだってシシ神の怒りの意思表示と言うよりは単なる山崩れのメタファーだろう。飽くまでシシ神は意思を持たない自然そのものである。

「生きろ」と言うのは、山崩れから奇跡的に生き残った初代近世人アシタカ達の勝手な自然解釈ではないのか。

それで何故漫画版ナウシカにわざわざ本物の自然を付けて映画化したのかといえば、それは宮崎監督が自然からは何の道徳律も導き出せないと言う境地に漫画版ナウシカのラストを執筆していた時に既に達していて、それを強調する為に無言の自然を導入したのではないか。

もののけ姫を完成させた時点で宮崎監督のエコロジー観は完成されていたのではないかと思う。

 

それで既にやりたいことを全てやり終えたならば何故『千と千尋の神隠し』を制作したか。

もののけ姫』との断絶があったのではないだろう。

監督は一貫して自然と近い概念を崇拝している。

「生命力」である。

手塚治虫荒木飛呂彦もそうだが、ある世代以前の人達は人間性と生命力と自然を二つイコールで結びつけて崇拝する傾向があるように思える。

自然に生命力を見出すのに失敗した宮崎監督は今度は現代の若者の生命力の無さに目を付け、若者が生命力を取り戻す物語を通じて生命力の賛美を行おうとしたはずである。

なので『千と千尋の神隠し』にもお説教がちりばめられている。

監督は作品を通じて今度は若者に生命力への回帰を訴えることで生命力賛美をしたのである。

 

ただそれも黄金期を過ぎ、インターネットによるクリエイターと世論との直接的対峙が始まるにつれ、陳腐化していった。

ハウルの動く城』は失敗作ではないが、自作の二番煎じなのである。

それで自らの老いも有って、宮崎監督はポニョや風立ちぬのような自閉的な作品が目立っている。

 

以上が宮崎駿監督の作品に関する私のざっとの感想だ。

けれども本当の事が気になるのなら、本人に聞けばいいのかもしれない。

再びADD/ADHDの長所を考えてみる

またADD/ADHDの長所を考えてみた。

色々有るはずである。

それでやはり”"他者"に興味を持てる事”というのは大きいのではないか、と言う思いに至った。

自閉的な、アスペルガー症候群の人々は他者に興味を持たない。

興味があるのはモノとモノとしての人だけである。

発達障碍者ではない普通の神経の人々も他者に興味を持たない。

彼らが興味を持つのは”我々”の事だけである。

普通の人々は自集団の中だけで自給自足し、友達付き合いをし、結婚をする。

異民族、自分とは神経学的に異なる人々、は意識の外にある。

こういう人々が「外」について物申すときは気をつけるべきである。

大抵は頭の中の「海外」「弱者」について語っているだけなのだから。

それで自分の想像と違う者が出てくるとその人を全否定しだす。

 「そういうのは例外である。」「帝国主義者と結託している。」等々。

「彼ら」の社会を無理やり私のものにするわけである。

けれども最近巻き返してきた右派とて変わらない。

天皇陛下天皇陛下」、「万邦無比」と喧しく言うが結局は自らの国、「天皇陛下」を制御の効く、自分の体の一部だと思っているに過ぎない。

「我々」の社会を私の社会だと摩り替える訳である。

自分の体の一部だと思い込んでいるので、右派も左派も社会は変えられると言いなす。

 

ADHDは違う。

ADHDは同じところに留まりたがらない。

何故純自閉的な人々が常に同じ事をするのが理解できないし、

何故健常者が常に「我々」に留まるのが理解できない。

 落ち着き無くパースペクティブをコロコロ変える訳である。

だから全くの他者にも視点が行く。

作り話に於いてもADHDの特質というのは良く捉えられているのでそれを最後に引いて記事を終わらせる。

 

ただの人間には興味ありません!
この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上!

 

彼女は恐らく、アスペルガー障害ではなく多動性障害である。

2014年、時はポストモダンもたけなわの時、スキゾ・キッズが冒険に出る時が再び来たようだ。

男女の法の横暴である

時事ドットコム:父子関係、DNAで覆せず=「婚姻中は夫の子」で初判断−血縁なくても認定・最高裁

 

法律で弱い人達を守れ、法律で悪い連中を規制しろ。

希望に目が眩んだ人達は法律で世界を良く出来ると信じている。

悪い事だと思う。家族の崩壊を促すから、ではなく財産の所有権が守られていないのである。

女性が複数の男性との間に子供を設けてはいけない、と法律で設定するのは些かクレイジーである。

男性も女性も複数の異性との間に子を設ける事を禁止される謂れはない。そんな事は根本的な自由(Liberty)の侵害だからである。

どうしても浮気しがちな人間は最初から自分は浮気するのだと世間に通達してから、浮気をすればよい。

もし気が変わって相方に愛想を尽かしてしまったというのなら”結婚”時に取り決めた違約金を払うようにする。

ただここで言う”結婚”とは性交申告以上のものではない。

要するに全ての人間の性行為をば全ての人間が知りうるようにしなければならない。

そして生まれてきた子供の養育義務は、DNA鑑定を始めとするありとあらゆる科学的手段によって父親である蓋然性が最も高いと判明した男性と間違いなく子供を生んだ女性に平等に帰せられなければならない。

専業主婦の仕事は家政婦の仕事として解され、お給料が払われる。

これで全ての男女関係が丸く収まるのではないか。

家族が崩壊するから、と言いつのる人々はでは何故家族が崩壊してはいけないのかを説明しなければならないだろう。

もとより人も物も制度も、諸行は無常である。

 

だがこれもリバタリアンユートピア、脳内郷だ。

今回の件では、夫へのこれから浮気するぞという通知は、なされなかった。

そして夫は自分の遺伝子を受け継がない子供に養育費を払わなければならない。

前者二件では夫は自らそれを望んでいるが、それにしても遺伝上の父親には、養育費を払い、面会を拒絶される義務が発生してしかるべきである。

四国の件はそうですらない。夫は悪い男の子供を無理やり育てさせられる。財産権が侵害されている。

言っておくが人は遺伝子から自由ではない。

それどころか全ての行動は大なり小なり遺伝子の制約を受ける。

こうして悪い間男の遺伝子が殖えてゆくのだろう。

人が取りうる立場は優生学か劣勢学しかないのに、「良識」有る人々は優生学を専ら批判して、悪の遺伝子を殖やす。

法の役目とは信賞必罰を徹底させる事ではないのだろうか。

裁判官達は(国会議員もだが)自分達が出切る事は多いと思いなしているようだ。

そんな訳は無い。人は市場メカニズムが与える以上の幸せは望むべくも無い。自然に逆らえば、即ちより不幸せな生活が待っている。

さあ、次の最高裁判所裁判官国民審査では、桜井龍子ら三人の詭弁家の名前の上に×を付けよう。

 

【追記】

このような判例は結局は女性たちにとっても不利である。

これで保守化が更に進むかもしれない。

女は家にいるべきと、皆が心に思うようになるかもしれない。

日本の将来はもう、誰が誰の子供かわからずどの父親も努力しないディストピアか、

さもなくばホメイニの国のように宗教が性を管理するディストピアしか残されていないのではないか。

「落ち着きのない人」に無条件に薬を使うべきか

先日の記事の追記を書き残しておきたい。

あの記事で言及した記事の管理人である「ukdata」氏がADHDであると「診断」した有村悠氏だが、私の勘では薬を飲んでも状況が改善しないのではないかと思われる。

というより薬の副作用が強く作用してしまう可能性がある。

仮に有村氏が自閉症スペクトラム障害を併発していたりすると以下の様な問題が存在するのである。

 

―――PDDと診断された患者に対するメチルフェニデートの有効性は,児童を対象とした米国の二重盲検試験によって多動症状に効果があることが示されたが,PDDの並存のないADHD児と比べるとその効果は小さく,副作用はすこぶる頻回であった.

(神尾2012,p63)

 

私がADHDなのか、自閉症スペクトラム障害を併発しているかも判然としないのだけれども、すくなくとも私はコンサータを使用して数日で片手足の痺れ、眩暈に悩まされる事となった。使っている間は気が大きくなるので、精密作業が仕事でなければいいかもしれないし、頓服としては使えるかもしれない。

ストラテラとなるともっと苦しい。寒気が止まらない。

でもそれより親との確執の方が問題なのだ。父親への恐怖が、他人の目が気になる心理が、臆病が不注意でなくとも特定の人々を物事に集中できなくさせる。

カウンセラーが役立たずである、というのは一理あるだろう。

漢方薬ともなれば言わずもがなである。

ukdata氏の西洋医学至上主義は私から見て、正しい。

けれども西洋医学に並ぶものがないのと、有村氏の悩みが生得的であるかどうかとは別であるはずである。

人文社会学者が正しい指摘をすることはあるという事は忘れずいるべきである。ただ彼らの提示する対策はどれも間違っているだけである。

私もそうなのだが親の方から変わっていってくれなけれどうしようもない状況があるのではないかと思う。

勿論「自分の人生」なので努力はする。出来れば死に物狂いで。

幸せの為と言うよりはプライドの為である。

どちらの親も、どの親戚も、どの教師も指導教官も、どの精神科医も私を冷たい目で見てきた。

良いではないか。こう言う時は、憎しみをばねにするしかない。

 

最後に私がしたいのは批判ではない。

有村氏にしろTehu氏にしろ誰も見ない日記でも、反論しておかないとああいう人に傷つけられる一方だからである。

もしこの記事で言及された人々がこれを見て頭にくるのなら謝っておきたい。

 

成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル

成人期の自閉症スペクトラム診療実践マニュアル

 

 

自閉的な人々の欠点、ADHD的な人間の用途

インターネットを見ていると自閉的な人々に出くわすことがかなりある。

とは言っても私が言いたいのは「私は自閉症スペクトラム症候群/アスペルガー症候群です」とホームページのタイトルに書いている人たちではない。

あの種の人達が自閉を僭称しているとはあまり思わないのだが、純粋なアスペルガーではない可能性はある。他動不注意を併せ持っているか、非典型の方ではないのか。

何しろ純血種の自閉的、アスペルガー的な人というのは名乗りだす事はおろか自分がそうである事を周りの人間から指摘されても否認している可能性が高い人達である。

そうではなくインターネット上に純自閉的な人々が居るとしたら私はそうだと名乗りを上げている人々ではなく、他人については遠慮なく否定し、一方で「私は正しい、そして私は世界一可哀相な被害者である」と名乗りを上げている人々のはずである。こう言っている時点で当人の加害性を疑うべきなのだが。

 

今日もそう言う人の記事を見かけた。曰く、ADD/ADHDはどうあがいても天才にはなれないという。

至極尤もだとは思う。何しろ集中力が無いのだから、きちんとした成果を出せない。

他の記事も自閉無罪、自閉天才と言わんばかりのアスペルガー賛美である。

恐らく自らも自閉的だと悟った上での、「生きる元気」を得るための自画自賛だろうと思う。

だが、自閉無罪を叫び、事有る毎に不注意多動の徒を扱き下ろすのは如何なものか。

自閉的な人々はいつもそうである。「俺は悪くない」

閾値には達してないとは思うが)我が父も我が指導教官もその気があった。

このブログ主の日常生活での”俺様”ぶりが目に浮かぶようである。

仕方ないのはその通りだ。特に理系の人間はそうなのだが、自閉・アスペルガー的な人々は”不快”でも役に立つ。

役に立つから絶望的に幼稚でも大人として認められる。羨ましい限りである。

 

恐らく自閉的な人々とADHD的な人々は元よりなさぬ仲なのだろう。

自閉的な人間が親や上司であったりすると、ADHD的な人間は彼らの支配に苛まれる。

子供・子分はアダルトチルドレン的になって唯でさえ短い集中力がゼロになる。

もともとADHDにも短いながらか集中はあってそれを臨機応変に使うことによってADHDの人間は生き延びていたはずである。

それが無くなったのを元々無いといわれるのは心外である。

自閉的な人々はその揺るがぬ姿勢がどれだけ周りの人々を傷つけるか、彼らは想像をしようとすらしない。

天才(「天才」という表現自体自閉的高知能者への賛辞とも言える)には勝てないというのは分かっている。

 

しかしその視点の硬直性が純アスペルガー的な人間の長所であると同時に、瑕疵であるように思われる。自閉的な人達というのは概して視点が固定化し周りが見えてないのである。農耕工業には向いていても狩猟採集には適さない。

近代が終わった現代は”狩猟採集”の世となっていくので、見ようによってはこれはADD/ADHDの人々にとってのチャンスである。

先の大戦の枢軸国、ないし科挙の伝統の厚い東アジアでは特にそうなのだが、集中力のある純アスペルガーの人々は出世し”すぎている”きらいがある。

このような社会では自閉的・アスペルガー的な人々が率先して部長・社長になって興味の有る専門分野以外の、人事・人材育成や会計・経営を任される。

自分の興味の無いことだから偶々最初に出会った思い込みに基づいた、ちょっとの安易な考えで「~しておけばいい」と吐き捨てがちに言う。

もとより現場を離れては力を発揮できない人達ではないのか。

経営が傾く。ルマンで一位を走っていたのに故障でリタイア、結局別の車両で3位止まり、など、在りし日のゼロ戦の片手落ちさを髣髴とさせいかにも日本的ではないか。

更に現場を知らない自閉的な人々だと有事の際すら役に立たない。

鳩山由紀夫さん、菅直人さんなどは当て嵌まるのではないか。

日本が衰退するわけである。

アスペルガー的な人々はポストモダンの世に至って迫害され始めた、という考えは間違ってはいないが不適切である。私の直感だが、近代にとんとん拍子に出世した年配の自閉的な人間が若い自閉者を苦しめている。

自閉的な長老の周りにはその人の言う「ロンブー淳」のようなサイコパス的な人々が水和して高給をもらって性的資源を掻っ攫っていく。

その人々も悪いに違いないが水和物の中心には恐らく自分と同じ種類の人間が「コミュ力」の有る小者達に騙されて居るのである。

それで敗北した純アスペルガー的な人間は知能の至らぬ人々、不注意多動な人々のようなもっと弱い発達障害者を苛めて支配しようとする。何とまあ悪い事態ではないか。

でもここで、もしADD/ADHD的な人間が居れば話が変わってくるかもしれない、という形で不注意多動の人々を弁護したい。

何しろ衝動性があるので正しいことをクチクチ陰で言うのではなく公に言う。

悪が明るみに出る。

注意力散漫なので色々な所に目が行く上に他人の見てないところも見る。

 

アスペルガー的な専門家には限界も有るということを上のブログ主には分ってもらいたい。

あなた方の先人に率いられた社会はガザーリーが科学を衰退させたイスラム世界であり、ナチスによって振るわなくなった戦後ドイツであり、蛸壺化した学問世界であり、役に立たない高性能と品質で市場を失った日本である。

 

役牌ではない么九牌を捨てたくなるのは分かる。しかし一九牌を使う役も有るのである。なので件のブログ主には岩波書店の創設者あたりから可能性を探って欲しいものである。

 

【追記】

この時期で言及しているのは以下の記事です。

http://ukdata.blog38.fc2.com/blog-entry-2933.html